日本がおおきく揺れていた激動の幕末に、国禁を犯してアメリカへと渡った21歳の若者がいました。彼の名は新島襄。同志社大学の創立者であり、大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の夫としても知られている人物です。ドラマでオダギリジョーさんが演じたことで、初めて彼を知ったという方も多いかもしれませんね。
今回はキリスト教主義にもとづく良心教育を唱え、同志社大学の設立に命を捧げた新島襄の激動の生涯をご紹介します。
国禁を犯してアメリカへ渡る
長く鎖国体制が続いていた当時の日本はまだ海外渡航が認められておらず、海外へ渡ることはまさに命懸けの行為でした。なぜ襄は危険を冒してまで日本を飛び出す決意をしたのでしょうか。
海外への憧れを抱いた青年時代
天保14年(1843)、安中藩士・新島民治の子として江戸の神田にあった安中藩江戸屋敷で生まれた新島襄は、七五三太(しめた)と名付けられました。これは女子が4人続いた後の初の男子誕生に「しめた!」と言った事が理由と言われています。
13歳から蘭学を学ぶなど秀才だった襄は、18歳で幕府の軍艦操練所に入り、洋学や数学を学び始めます。この時、襄はアメリカ帰りのジョン万次郎から数学や航海術などを教わっていました。彼の影響もあり、襄が持っていた海外への憧れはよりいっそう強くなっていきます。そしてある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書と出会った襄は、アメリカへ渡ることを決意するのです。
命懸けの渡米
開国したとはいえ、当時はまだ日本人の海外渡航は禁止されており、学問や商業目的の海外渡航が解禁されるのは慶応2年(1866)のことでした。そのような状況にも関わらず、襄は国禁を犯してアメリカへ渡る計画を実行に移します。元治元年(1864)、快風丸という船に乗って開港地の箱館へと向かった襄は、そこで出会ったロシア人司祭のニコライや坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨らに協力してもらい、上海へ向かう米船ベルリン号への密航に成功します。こうして日本を飛び出した襄は、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、アメリカへと向かいました。
慶応元年(1865)7月、ついに襄はアメリカのボストンへ到着します。船長のテイラーに船の持ち主であるハーディー夫妻を紹介してもらった襄は、アメリカにきた理由を拙い英語で必死に伝えました。その純粋な志に胸を打たれたハーディー夫妻は、彼を我が子同様に受け入れることを決めます。こうして襄はハーディー夫妻の援助のもとフィリップス・アカデミーに入学、在学中に洗礼をうけてクリスチャンとなりました。その後、アマースト大学に進み理学の学士号を取得します。これは日本人初の学位取得でした。
岩倉使節団との交流
大学卒業後、キリスト教の宣教師として帰国することを考えた襄は、アンドーヴァー神学校で神学を学び始めます。この頃、初代駐米公使となった森有礼と面会する機会を得た襄は、彼の尽力によって旅券と留学免許状を取得し、国から正式な留学生として認められました。そんな時、襄はアメリカ訪問中の岩倉使節団と出会います。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、自分付きの通訳として使節団に参加させることを決め、襄は使節団とともに欧州各国を歴訪しました。この時に編集した使節団の報告書ともいうべき『理事功程』は、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えています。
同志社設立に奔走
明治7年(1874)、アンドーヴァー神学校を卒業後に宣教師の試験に合格した襄は、アメリカン・ボードの海外伝道部年次大会で、日本でのキリスト教主義大学設立を訴えて5000ドルの寄付を得ることに成功します。そして同年11月、襄は10年ぶりに日本に帰国しました。帰国後、アメリカで「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」を名乗っていた襄は、その名を「新島襄」に改めています。
同志社英学校を設立
帰国した襄は大阪での学校設立を目指しましたが、キリスト教教育を認めてもらえず、木戸孝允に相談します。そこで紹介されたのが京都府知事の槇村正直と京都府顧問の山本覚馬でした。彼らの賛同を得た襄は、京都府と文部省から学校設立の許可を得ることに成功します。しかし、仏教の中心地であった京都にキリスト教主義学校を開校することに対して、僧侶たちから大反対を受けてしまいました。襄はそんな中でも粘り強く交渉し続け、学校で聖書を教えないなどといった条件を飲む形で、なんとか学校設立を認めてもらいます。そして明治8年(1875)11月29日、現在の同志社大学の前身となる「同志社英学校」が開校しました。「同志社」という名前は山本覚馬が名付けたと言われています。
同志社で学んだ偉人たち
わずか8人の生徒でスタートした同志社英学校でしたが、翌年にはL.L.ジェーンズの影響を受けてキリスト教に入信した「熊本バンド」と呼ばれる青年たちが入学してきます。その中には、後に雑誌『国民之友』や『国民新聞』を創刊した日本を代表するジャーナリスト・徳富蘇峰もいました。蘇峰は新聞記者を目指して同志社を中退しますが、その後も『国民之友』に同志社に関する論説を掲載し、大学設立の募金運動に奔走していた襄をバックアップするなど、襄と同志社への想いが消えることはありませんでした。
妻・八重との結婚
同志社英学校の設立を目指す中で、襄は山本覚馬の妹である八重と出会い結婚します。激動の幕末に、アメリカへ渡りキリスト教の宣教師となった襄と、会津戦争でスペンサー銃を持ち戦った八重。それまでまったく違う人生を歩んでいた二人の夫婦仲はどのようなものだったのでしょうか。
名前で呼び合うほど仲が良かった
襄はアメリカでの生活を経て、進歩的な女性観をいち早く身につけていた日本人でした。学識があり夫と対等に行動できる自立心をもった女性を妻に迎えたいと考えていた襄にとって、八重はまさしく理想の女性でした。二人の夫婦仲はとてもよく、レディーファーストを敢行する襄に対しても、八重は快く受け入れていました。当時では珍しくお互いを名前で呼び合い、周囲からは驚かれていたようです。襄がアメリカのハーディー夫妻へ送った手紙には「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と記しています。
日本人で初めてキリスト教式結婚式をあげる
明治9年(1876)年1月2日、八重は京都で最初のプロテスタントとしての洗礼を受けます。当時まだキリスト教への偏見が強かった京都で洗礼を受けることには、相当の覚悟が必要だったことでしょう。それでも洗礼を受けたのは、襄との強い絆があったからに違いありません。翌3日に、襄と八重はJ.D.デイヴィス宣教師の司式で結婚式を挙げます。これは日本人で初めてとなるキリスト教式の結婚式でした。
道半ばで命を落とす
同志社女学校(後の同志社女子大学)も開校し、襄はいよいよ悲願である大学設立に向けて動き出します。日本だけでなくアメリカへも募金活動に赴くなど奔走した襄でしたが、長年の過労が原因となり、大学設立を目前に46歳でこの世を去りました。最後を看取った八重にかけた最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッバイ、また会わん」だったそうです。
襄の死後、大黒柱を失った同志社は多くの苦難を乗り越え、大正9年(1920)の大学令により正式に「同志社大学」となりました。新島が目指した「良心教育」を掲げる同志社大学では、現在も多くの学生たちが学んでいます。
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