元暦2/寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いで、平家は源氏に敗れました。これが平家の滅亡とみなされていますが、実は生き残っていた人々もいたのです。そうした人々が日本各地に逃れ、潜伏生活を送ったという説が、平家の落人伝説なんですね。今回は、壇ノ浦後の平家と、落人伝説についてご紹介します。
壇ノ浦の戦いの後、平家一門の行く末
壇ノ浦の戦いで、大部分の平家の武将たちは入水して最期を遂げました。しかし、安徳天皇の母であり平清盛の娘である建礼門院徳子は、源氏に救われて出家しています。
清盛の妻・二位尼は安徳天皇と入水しましたが、その弟である平時忠(「平家にあらずんば人にあらず」の人)は捕虜となり、娘を源義経に嫁がせ、流刑となった後もそれなりの待遇で生涯を全うしました。
総大将だった平宗盛は源義経に捕まると鎌倉に連行され、京都に送還されて斬首となりました。彼の息子・清宗やその他の男子も殺されています。
一方、清盛の異母弟である平頼盛は、兄弟の中で唯一生き残りました。
頼盛は後白河法皇や源頼朝とも深い接点があり、平家の中枢から距離を置かれていたとみられています。一説には、平家一門が西国へ落ち延びて行く際に知らされていなかったとも言われているんですよ。頼盛は、壇ノ浦の戦いの翌年に死去しました。
では、それ以外の平家及びその郎党はどうなったのでしょうか。
平家落人伝説の地① 栃木県日光市湯西川
栃木県の北部、山間の秘境・湯西川温泉には平重盛の六男・忠房の息子(平景定とも)らが落ち延びたとされており、毎年6月には平家大祭も開かれています。
そしてここには変わった風習が今も残されているのです。
・端午の節句に鯉のぼりを揚げない
・たき火をしない(煙を立てない)
・鶏や犬を飼わない
つまり、山中に人がいることを悟られないようにしていたということなんですね。
また、平家だということを隠すために「伴」姓を名乗ったとも伝わっており、今もこの辺りには伴姓の人たちが住んでいます。
落人の里を復元・展示している平家の里には、下関で安徳天皇を祀っている赤間神宮が日本で唯一分祀されているんです。ちょっと、信憑性が高いかなと思いますよね。
平家落人伝説の地② 福岡県糸島市 唐原(とうばる)地区
標高330mほどの山間部にある糸島市の唐原地区には、平重盛の妻と2人の姫が落ち延びてきたと言われています。しかし源氏の追っ手が迫り姫たちは殺され、それを見た母親は自害してしまったと伝わっているのです。
そして、彼女たちの菩提を弔うために、残された家臣たちが住みついたとされています。
彼女たちが都を懐かしんだと言われる「都見石」や、重盛の遺髪を埋めたという「黒髪塚」、姫たちが舞を舞ったとされる「千寿院の滝」などがありますよ。
平家落人伝説の地③ 高知県高岡郡越知(おち)町
こちらには、宮内庁が皇族の墓と認めた「陵墓参考地」(誰が葬られているかは特定できず)があり、これが安徳天皇の墓とされています。というのも、安徳天皇は壇ノ浦では死んでおらず、ここに逃げてきて23歳まで生きたという伝説があるのです。安徳天皇の死後、横倉山に横倉宮という神殿を建てて祀ったとされており、近くには入水したはずの平知盛や平経盛の墓もあるのです。
他にも平家落人伝説は日本各地に残されています。やはり、人目につかない山間部に多いようですね。今となっては確かめることは難しいですが、もし彼らが生き延びていたら・・・。そんな歴史ロマンを思わずにはいられませんね。
(編集部)
参照元
平家の里
日光旅ナビ 日光市観光協会
糸島市観光協会
越智町公式HP
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