【西郷菊次郎の生涯とは?】世界で活躍した西郷隆盛と愛加那の息子

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【西郷菊次郎の生涯とは?】世界で活躍した西郷隆盛と愛加那の息子

明治維新の立役者であり、大久保利通や木戸孝允とともに”維新の三傑”と称される英雄、西郷隆盛。誰もがその名を知る人物ですが、大河ドラマ「西郷どん」でそのドラマチックな生涯が描かれ、さらに大きな注目を集めています。しかし、彼が残した子どもたちのことは、意外にもあまり知られていません。

今回は、偉大なる父を持つ隆盛の長子・西郷菊次郎の生い立ちから西南戦争での足取り、父亡き後の華やかな活躍についてご紹介します。

西郷隆盛と愛加那の子:菊次郎

西郷菊次郎はどこで生まれ、どのように育ったのでしょうか。まずは、幕末の激動期に生を受けた菊次郎の生い立ちについてご紹介します。

奄美大島で生まれる

愛加那
菊次郎の母、愛加那です。

菊次郎は維新の英雄である隆盛と愛加那(あいかな/あいがな)の長男として、万延2年(1861)に奄美大島で生まれました。当時、薩摩藩の方針により奄美大島に島流しにされていた父の隆盛は、奄美で出会った女性・愛加那を妻に迎えます。2人の仲はとても良く、菊次郎も生まれて幸せな日々を過ごしていましたが、父の隆盛は藩命によって妻子を置いて薩摩へと戻ってしまいました。その後、愛加那は菊次郎の妹となる菊子を生んでいます。後に菊子は日清・日露戦争で活躍した軍人である大山巌(いわお)の弟・誠之助の妻となりました。

薩摩で育ちアメリカ留学へ

西郷糸子
菊次郎を育て上げた、隆盛の本妻である糸子。

明治時代になってからほどなく、菊次郎は9歳で妹の菊子と共に奄美大島を離れ、薩摩で新たな生活を始めます。薩摩に移った菊次郎は、隆盛の本妻である糸子のもとで育てられました。糸子は自らが生んだ子どもと菊次郎たちを分け隔てなく育てたそうです。その後、菊次郎は12歳のときにアメリカに留学しました。当時の明治政府は欧米各国に追いつくために、技術や文化を吸収すべく留学生の派遣を推し進めており、そういった時代背景も、菊次郎が留学した理由の一つとして挙げられます。

西南戦争で父と右足を失った悲劇

西南戦争の錦絵

2年余りの留学を終えた菊次郎は、明治7年(1874)に鹿児島に帰参。当時の日本は不平士族たちの反乱が起き始めており、各地に明治政府に対して不満を持つ士族たちがいました。菊次郎が帰った鹿児島はその最たるもので、多くの不平士族たちの存在により、東京の明治政府に対して独立国家の様相を呈していたのです。やがて西南戦争が勃発、菊次郎もこの戦いに巻き込まれていきます。

西南戦争では薩摩軍として戦う

明治10年(1877)、隆盛を担ぎ上げた薩摩の不平士族たちは、近代日本で最大にして最後の内戦である西南戦争を起こしました。西南戦争勃発時、菊次郎は当時の数え方で17歳でしたが、薩摩軍の一員として参戦します。桐野利秋、篠原国幹(くにもと)、村田新八ら優れた武人と屈強な薩摩士族を擁する薩摩軍は、九州各地で明治政府軍と戦いを繰り広げました。

重傷を負い叔父の元に投降

西郷従道
西南戦争では、叔父である従道に投降しました。

政府軍と薩摩軍の戦いは熾烈(しれつ)を極め、両軍とも多くの死傷者を出しながら戦いが続きます。そんな中、菊次郎は延岡・和田越えの戦いで右足に銃弾を浴びてしまったのです。当時の戦場の医療技術では手当てができないほどの傷だったため、菊次郎の右足は膝下から切断されてしまいました。戦況も薩摩軍にとって思わしくなかったため、彼を連れて行くことは不可能と判断した薩摩軍幹部の桐野利秋から、他の負傷兵とともに現地に残されることになります。その後、隆盛に長く仕えた永田熊吉という老僕が菊次郎を背負って、隆盛の兄弟でありながら政府軍の一員であった叔父・西郷従道(じゅうどう/つぐみち)に投降しました。従道は生きて戻った菊次郎を見て、喜んだそうです。その後、薩摩軍は壊滅し、隆盛は多くの薩摩士族とともに死亡。西南戦争は菊次郎にとってつらい戦いとなりました。

世界で活躍した菊次郎

西郷菊次郎の写真

西南戦争終結後、賊軍側にいた西郷菊次郎でしたが、元々父の隆盛が維新の元勲だったこと、多くの同情者がいたことなどから許され、明治政府に入りその力を発揮します。西南戦争後、海を越えて活躍した菊次郎について見ていきましょう。

外務省に入る

外務省

西南戦争の後、菊次郎は23歳で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で働きました。一時は反乱に加担した菊次郎が明治政府で官職に就くことができた背景には、叔父の従道の後押しがあったといわれています。外務省入省の3年後には再びアメリカへ留学し、明治日本で国際人としての力を蓄えていきました。

日清戦争後、台湾に赴任

当時勃発した日清戦争に勝利した日本は台湾を獲得します。菊次郎は台湾に派遣され、基隆(きいるん)支庁長、宜蘭(ぎらん)支庁長などの重職を歴任しました。当時台湾は匪賊(ひぞく)の跳梁やアヘンの蔓延などで荒れており、日本人である菊次郎は台湾の人々の心をつかむのに苦心します。宜蘭では当時氾濫を繰り返し人々を苦しめていた川の堤防工事などを行い、台湾の発展に尽くしました。この事業は現地の人から大いに喜ばれ、現在でも菊次郎の功績をたたえる石碑が台湾に残っているほどです。

京都市長に就任する

京都市電
1978年に全廃された京都市電。菊次郎はこの事業に注力しました。

台湾での任務を終えた菊次郎は日本に戻り、京都市長に就任しました。市長として菊次郎は「京都百年の大計」と呼ばれた、京都を長期的視点で大きく発展させるための事業に取りかかります。発電、上下水道整備、市電の設置が、その目玉でした。事業に必要な巨額の資金を、菊次郎は自らの手腕で調達し、京都の発展に大きく貢献したのです。

偉大なる父を持つ男

健康上の理由で京都市長を辞してから、菊次郎は永野金山の管理などに携わるものの、体調は回復せず後に辞職。昭和3年(1928)に心臓麻痺で死去しました。偉大な西郷隆盛を父に持ち、自身も明治から大正へと日本政府を支え続け、国際的にも活躍した西郷菊次郎。台湾の人々に親日家が多いのも、菊次郎らの功績が理由の一つだと言われています。人々のために尽くし続け、様々な功績を遺した菊次郎は、まさに父・隆盛の教えである「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を体現した人物だといえるでしょう。

 

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