明治維新から150年となる2018年、NHK大河ドラマ「西郷どん」の影響もあり、幕末から明治初期にかけての歴史に注目が集まっています。戊辰戦争を経て明治という新たな時代を迎えた日本でしたが、その後もさまざまな士族による反乱が起きました。江戸時代は身分制度のトップだったかつての武士たちは、なぜこうした反乱を起こしたのでしょうか。
今回は、各地で反乱を起こした士族たちの思惑や反乱が起こった背景、中心となった人物たちについて解説します。
不平士族の乱はなぜ起こったのか?
士族たちはどうして新政府に対して不満を持ち、反乱を起こしたのでしょうか。反乱を起こした士族たちの思惑と、反乱が起こった背景について見ていきます。
政府に不満を持っていた士族たち
士族とは江戸時代に武士と呼ばれていた人たちが、明治維新後に新たに与えられた身分を指す名称です。旧公卿や大名に与えられた華族という身分と違い、士族は何の特権も持っていませんでした。士族には、明治政府の方針に賛成し出世していった人たちと、新政府に不満を持ち官職を与えられなかったり、職を辞してしまったりした人たちがいました。後者は不平士族と呼ばれ、彼らの中には明治政府を倒して第二の維新を画策する者まで出てきたほどでした。
明治六年の政変がきっかけに
不平士族たちが反乱を起こすきっかけになったのが、「明治六年の政変」と呼ばれる出来事です。これは、征韓論を主張する西郷隆盛、板垣退助らが、明治政府に征韓論を受け入れられなかったことに憤り、政府を去ってしまった事件でした。西郷は旧薩摩藩を始め士族たちから絶大な人気を持っていたので、彼の辞職に伴い、多くの士族たちが政府の官職を去り、全国に不平士族が散らばります。また維新後、職と俸禄を失った士族の中には、征韓論によって起こる戦争で職を得ようと考えていた者たちもいましたが、彼らの目論みも潰えてしまいました。
明治政府に反発した佐賀の乱
明治六年の政変の後、最初に起きた大規模な不平士族の反乱が佐賀の乱です。これは、新政府で司法卿を務めたものの職を辞して下野した江藤新平や、憂国党の党首に担がれていた島義勇(しま よしたけ)が中心となり、佐賀で起こした反乱でした。政府の高官だった江藤はもともと不平士族をなだめ、おさえるつもりで佐賀に向かったのですが、論客と知られた江藤も、結局は首領としてかつぎあげられてしまい、2500人以上が参加する大きな動乱に発展します。
江藤の思惑は、この反乱をきっかけに全国で不平士族が反乱を起こし、政府を攻撃するだろうというものでした。しかし、明治維新後に技術を一新した新政府軍の迅速な対応により、鎮圧されてしまいます。佐賀でも、この反乱に参加しない勢力が多くいたことも江藤たちの誤算でした。首謀者の二人、江藤と島は梟首に処せられました。そして、この乱を皮切りに全国で不平士族の反乱が頻発していくのです。
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廃刀令に反対した神風連の乱
明治9年(1876)、それまで士族階級の特権であった帯刀を禁止する廃刀令が出されます。刀は当時、武士の魂とまで言われていました。しかし、明治時代になってから廃刀令や徴兵令、金禄公債証書発行条例など、それまでのしきたりを壊す新制度が次々に施行されます。
これに反発して太田黒伴雄・加屋霽堅(かや はるたか)らが率いる敬神党が熊本で反乱を起こしました。敬神党の別名から神風連の乱と名付けられたこの乱には、約170人が参加し、熊本鎮台の一部を制圧しますが、後に日露戦争で活躍する児島源太郎らに制圧され、首謀者らは死亡します。武士の特権を奪う廃刀令などの政策に反対した反乱のさきがけとなる事件で、これに誘発される形で秋月の乱、萩の乱などが発生しました。
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福岡県で起こった秋月の乱
明治9年(1876)10月27日、現在の福岡県秋月で反乱が起こります。首謀者は宮崎車之助・今村百八郎ら約230人の旧秋月藩士たちでした。神風連の乱から3日後に発生したことから、この頃には不平士族たちの不満が極度に蓄積していたことが分かります。
旧秋月藩士たちは旧豊津藩の士族らと決起を約束していましたが、旧豊津藩側が決起しない方針を固めたため、豊津から通報され、到着した小倉鎮台の兵に攻撃を受けます。このとき小倉鎮台を率いていたのは後に日清戦争、日露戦争で活躍する乃木希典でした。この攻撃で敗退した反乱軍は首謀者が自殺、残った勢力も11月中にはほぼ逮捕され終結します。
秋月の乱に続いた萩の乱
秋月の乱に呼応したのが山口県で起こった萩の乱でした。萩は維新を押し進めた最大勢力の一つ、長州藩の本拠地であったことから大きな影響を与えました。乱を起こしたのは前参議の前原一誠。維新の三傑ともいわれる桂小五郎や、奇兵隊を結成した高杉晋作らとともに吉田松陰の松下村塾で学んだ人物でした。
秋月の乱と同じく明治9年(1876)に発生しますが、政府軍側に襲撃が察知されていたことや弾薬不足から、首謀者の前原らは天皇への直訴に方針を切り替え、船で東京に向かいます。悪天候のため途中の港で停泊していたところを通報され、弁明の機会を与えることを条件に投降。しかし、裁判では弁明の機会が与えられないまま、首謀者として即日斬首され終結に至りました。
そして最期の内戦、西南戦争へ
各地で起こった数々の内戦は、やがて西南戦争という日本史上最後の内戦へとつながります。西南戦争を起こした中心人物は、明治維新の功臣として知られる西郷隆盛と旧薩摩藩士の別府晋介、桐野利秋らでした。下野した西郷は士族教育のために私学校を作りましたが、やがてそれは西郷の意思とは関係なく反政府的な性格を強めていきます。そしてついに士族たちの不満が爆発し、新政府打倒を掲げて決起したのです。戦を望んでいなかった西郷も、後戻りができない状況で覚悟を決めました。最強とされた旧薩摩藩勢力の反乱は、当時の日本人に大きな衝撃を与えます。
明治10年(1877)西郷を中心とする私学校の士族たちは熊本鎮台を攻撃し、その優れた武勇で戦いを優勢に進めます。しかし、熊本城を守る名将・谷干城(たにたてき)の頑強な抵抗と政府軍の攻撃に遭い、薩摩軍は徐々に追いつめられていきました。最後には鹿児島の城山で西郷が自害、桐野や別府らも死亡し西南戦争は終結します。以降の中央政府への反対運動は、士族の反乱に加担しなかった板垣退助らが率いる自由民権運動に移りました。
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士族たちの怒りが頂点に達していた
明治時代に各地で起こった士族反乱は、やがて西南戦争を引き起こし、それぞれ鎮圧されました。反乱を起こした士族たちの多くは、かつて明治維新や戊辰戦争に参加し活躍した人たちです。彼らは命をかけて築き上げた明治政府から、俸禄や帯刀などの特権を取り上げられ、なんのために維新を起こしたのかと憤りました。不平士族たちには行動を起こすだけの理由があり、政府に対する怒りが頂点に達したことで数々の乱につながっていったのです。
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