伊藤博文といえば知らない人はいないほど有名な人物ですよね。幕末の頃には吉田松陰に学んだのち尊王攘夷運動に参加、明治維新後は新政府の中心的役割を担い、明治18年(1885)には日本の初代総理大臣になりました。博文はプライベートでも波乱万丈だったようで、生涯で2回結婚しています。特に二人目の妻・梅子は良妻賢母として後世に名を残しました。
今回は、偉人である夫を支えた妻、梅子とはどのような人物だったのかについて解説します。
伊藤博文は再婚していた
文久3年(1863)伊藤博文は一人目の妻・入江すみ子と結婚します。しかし、慶応2年(1866)には離婚、すみ子はその2年後に長州藩士・長岡義之と再婚しました。二人はなぜ離婚することになったのでしょうか。
最初の妻 “入江すみ子”
すみ子は、松下村塾の塾生の中で四天王と呼ばれた秀才・入江九一と野村靖の妹でした。入江は高杉晋作と肩を並べるほどの人物で、博文よりも年上です。つまり博文は同じ塾生として、尊敬すべき先輩の妹を妻に迎えたということになります。
学問に熱心な兄弟の中で育ったすみ子は、松下村塾の志士らとも交流を深めており、そのような流れで博文とも出会ったようです。
不倫の末に芸者の梅子と再婚
秀才として知られる先輩の妹と結婚したのですから何の不足もなさそうですが、二人の結婚生活はわずか数年で終わってしまいます。その原因は博文の浮気でした。
実は博文は大の女好きで知られており、そのエピソードは枚挙に暇がありません。すみ子との結婚後も女遊びは止まらず、ついには小梅という芸者との間に子どもまでできてしまう事態に陥ります。この妊娠がきっかけで二人は離婚し、博文はのちに梅子となる芸者・小梅と再婚を果たすのです。
すみ子もその後再婚しますが、その仲人が前夫の博文だったことは、普通の感覚からすると少し不思議な感じがしますね。
博文と梅子の仲はどうだったのか?
今で言うデキ婚をした二人ですが、この2回目の結婚後も博文の女遊びは止まりませんでした。最初の結婚がそれで破綻しているというのに、なかなか豪快ですよね。まさに「英雄色を好む」という言葉がぴったりですが、そんな二人の夫婦仲は決して悪くありませんでした。
大の女好きだった博文に対し……
妻となった梅子は、博文を献身的に支えました。相変わらず女遊びが激しい夫をなじることなく、芸者を家に連れ込んでも口出ししなかったといいます。それどころか、芸者たちを丁寧にもてなし、反物を手土産に持たせたというのですから、相当肝がすわっているといえるでしょう。
博文は自身の女好きエピソードを隠そうとはせず、むしろ周囲に自慢していたようです。それは明治天皇の耳にも入り、女性関係を慎むよう注意を受けたこともあります。
それほど女好きだった博文ですが、梅子との夫婦仲は良好で、二人の間には複数の子どもも生まれています。梅子の高い妻力があったからこそ、二人はうまくいっていたのかもしれませんね。
伊藤梅子の人物像に迫る!
芸者遊びばかりの夫を支え続けた梅子ですが、彼女も元々は芸者でした。そんな梅子の人生は、博文と出会ったことでガラリと変わっていったのです。
”小梅”という芸者だった
梅子は町人・木田久兵衛の娘として長門国、現在の山口県で生まれました。その後、赤間関稲荷町の置屋「いろは楼」の養女となり、芸妓「小梅」として亀山八幡宮の茶屋で働くようになります。そして元治元年(1864)頃、イギリスから帰国した博文と出会うのです。
内憂外患の連続で滅亡の危機に瀕していた当時の長州藩は、幕府への恭順を掲げる俗論派と、攘夷を主張する正義派(急進派)が対立していました。留学を経て開国論に転じていた博文は攘夷も幕府にも反対であり、どちらの派閥にも加わりませんでしたが、正義派の井上聞多(馨)が俗論派の襲撃にあうと命の危険を感じて行方をくらませます。そんな時にちょうど逃げ込んだのがこの亀山八幡宮でした。博文は自分をかくまってくれた梅子の美しさに惚れてしまい、それ以降二人は逢瀬を重ねていきます。しかし、このときの博文は既婚者だったため、二人は不倫関係でした。
二人が結婚に至るには、ある事件が関係していました。というのも、父親の借金の形に梅子が身売りされることになったのです。博文は彼女を身請けするため、当時の妻と別れ、すでに自分の子どもを宿していた梅子と再婚したのでした。
博文を支えた良妻賢母
二人の間には複数の子どもがいましたが、それ以外にも数人の養子がおり、梅子は彼らを立派に育て上げました。博文が住み込みで働いていた女性を妊娠させたときも、相手の女性に思いやりを持って接し、その子どもを引き取って大事に育てたといいます。また梅子は、博文が身請けした13歳の芸者・小雄の世話までしていたというのですから、その献身ぶりには頭が上がりません。結婚後の梅子はまさに「良妻賢母」という言葉が相応しい女性だったといえるでしょう。
向学心にあふれる才女
博文が内務省長官に任命されると、自宅には多くの外国人が訪問するようになりました。そのため梅子は、博文の助けになろうと文字の読み書き・英語・和歌・社交ダンスなどを必死で勉強します。もともと字が書けなかった梅子ですが、この努力によって博文の代筆ができるほどに字が上達しました。英語も手紙が書けるほどで、和歌も皇后とやりとりするほどの腕前だったといいます。
博文が内閣総理大臣になった際は、首相官邸の舞踏会で流暢な英語を披露。また、舞踏練習会では率先して洋装をまとい、尻込みする高官夫人らをリードしたというエピソードも残されています。彼女がいかに聡明で努力家だったかが分かりますね。
明治42年(1909)に博文が暗殺されたとき、梅子は涙一つ見せずに「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と詠んだそうです。彼女は最後まで夫のことを敬い、深く愛し続けていたのです。
初代ファーストレディになった女性
農民から初代内閣総理大臣に上り詰めた伊藤博文と、芸者からファーストレディになった梅子。サクセスストーリーを歩むことになった二人は、惹かれあう運命にあったのかもしれません。献身的に夫・博文を支え良妻賢母と称えられた梅子ですが、その裏には計り知れない彼女のたゆまぬ努力があったのです。
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