戦国時代には家臣が主君を討つ下剋上が多く発生しましたが、日本史を振り返るとそれ以前から親子や兄弟間での争いは絶えなかったことがわかります。その中には、親殺しが強烈なエピソードとして残っている武将もいました。
斎藤義龍も父殺しの汚名を背負いながら生きた武将でした。彼はなぜ父を手にかけたのでしょうか?
今回は、義龍の生い立ちやその後の人生、残された逸話などについてご紹介します。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築きました。
また官位の獲得にも注力しており、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
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