第4回「士族の時代に終わりを告げた西南戦争 戦いに臨んだ西郷どんの真意とは!?」【松平定知が語る明治維新150年 ~その時 日本が動いた~】

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武家政権を終わらせ、近代の扉を開いた「明治維新」から今年で150年。これを記念し、「その時歴史が動いた」の司会などで知られる松平定知氏による全4回の新連載「松平定知が語る明治維新150年 ~その時 日本が動いた~」。最終回となる第4回のテーマは、西郷隆盛が命を落とした日本最後の内乱「西南戦争」です。

西南戦争の様子を描いた錦絵(「鹿児島暴徒出陣図」)

士族の反乱の直接の引き金は 武士の魂を奪った廃刀令

2018年は、明治維新からちょうど150年目であり、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されてから140年目にあたる。大久保は西郷隆盛木戸孝允(桂小五郎)とともに、近代日本を築いた功労者として「維新の三傑」と称されている。その三傑のうち、木戸は明治10年(1877)に病死、同年に西郷も西南戦争で自決し、翌年の明治11年(1878)には大久保も凶刃に倒れた。諸説あるが、西南戦争や維新の三傑の死をもって明治維新は終わったと見る向きも多い。今回は、そんな明治維新の終結のひとつとされる、日本史上最大にして最後の内乱となった西南戦争について考えてみたい。

西南戦争は、西郷隆盛をリーダーとする不平士族たちの反乱である。士族たちが明治政府の冷遇政策に対して腹の虫がおさまらず、武力蜂起に至ったおもな理由は「廃藩置県」「徴兵制」「秩禄処分」「廃刀令」の4つにあると思う。彼らは廃藩置県で働く場所が奪われ、徴兵制で戦いの専門職としての地位を失い、秩禄処分で収入が消え、廃刀令で侍としてのプライドをズタズタにされてしまったのだ。そのなかでも、私はとくに武士の魂である「刀を捨てろ」という廃刀令が、士族の反乱の直接の原因になったと思っている。特権を剝ぎとられたうえに生活もままならなくなった彼らが、「士族の商法」でなんとかやっていこうとしていた矢先に、刀という侍としての誇りまで奪われてしまったのである。こんなひどい仕打ちを受けては、怒りを爆発させないほうが不自然といえよう。

まもなく不平士族たちは「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」を連鎖的に引き起こしていくが、力及ばず明治政府に鎮圧されていった。そんな彼らの最後の心の拠り所となったのが西郷隆盛であり、必然的に行きついたのが西南戦争だったのである。

不平士族のカリスマになった西郷と その状況を危険視する大久保

大久保利通は結果的に西郷を死地に追いやることになってしまいました

士族のあいだで明治政府に対する不満が高まっていたころ、西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって大久保らと対立していた。いわゆる征韓論である。ただ、征韓論は一般的には士族の不満をそらすため、彼らを登用して武力で朝鮮を攻めようとする板垣退助らの論調を指すことが多く、西郷は「自分が使節として赴いて平和的に話をまとめるよ」という遣韓論の立場にあった。いずれにせよ、この朝鮮に関する問題は時期尚早として、国内の政策を優先したい大久保らの反対にあう。その結果、堪忍袋の緒が切れた西郷たちは官職を辞し、それぞれの故郷へと帰っていった。世に言う「明治六年の政変」である。

そんな時代背景のなか、知名度も人気もカリスマ性もある西郷のもとへ不平士族たちが集まってきたのは自然の流れだった。鹿児島でのんびりと暮らそうと考えていた西郷は、血気盛んな不平士族たちが暴動を起こさないようにと心を配り、私学校を設立して彼らの教育に励む。しかし皮肉なことに、これが明治政府にとって脅威に映った。西郷という強力なリーダーのもとで統制された軍隊が明治政府に牙(きば)をむいたら、一大事になるのは火を見るよりも明らかだったからだ。

そこでリスクを回避するため、明治政府側の大久保は鹿児島各地の火薬庫に置いてある武器・弾薬を大阪へ移動させるよう命じた。ところが、それを目撃した私学校の生徒たちが暴発してしまう。その知らせを受けた西郷は、「しまった!」と叫んで悔やんだといわれる。それでも西郷は「こいつらを見捨てるわけにはいかん」と気持ちを切り替え、「自分の命はお前らにあずけた」という有名な言葉を口にして、戦地へと向かっていった。

南洲墓地にある西郷隆盛の墓(鹿児島県鹿児島市)

西南戦争における立場の違いがあるにせよ、西郷と大久保という同郷の盟友同士が両陣営のトップにいたのは「歴史の皮肉」としか言いようがない。戦いのきっかけをつくったのも大久保であれば、結果的に西郷を死地に追いやったのも大久保である。大久保は、そのことで鹿児島での人気をかなり落としてしまっている。第1回でも紹介したが、鹿児島市内の甲突川沿いに建つ大久保利通像は、なぜか台座の文字が意図的にズレている。また、最近では2018年5月に、ある有志のグループが西郷隆盛らの眠る鹿児島市内の「南洲墓地」で「大久保利通の没後140年」の法要を開催しようとしたが、反発を受けて法要の名称などを変更する運びになったというニュースも報じられた。このように、今なお西南戦争で西郷を敗死させた大久保への地元における風当たりは強いのである。

西郷は最初から勝つ気がなかった!? 山県有朋や旧庄内藩にみる奇縁

西南戦争は、熊本城とその周辺にて戦いの火蓋が切られた。戦国武将の加藤清正が築いた難攻不落の熊本城に対し、薩摩軍は最悪手ともいうべき兵糧攻めの籠城戦を選択する。少人数で立てこもる熊本城はあえて無視し、ひたすら東京へ向かって進軍していけば、道中で他県の不平士族たちが続々と合流してくるため、一大勢力を築けたはずである。それをしなかった点からも、私は「西郷には最初から勝つ気がなかった」と思っている。第1回でも触れたが、過去に何度か自殺未遂をしていた西郷は、不平士族たちと心中するつもりで「最初から最期を見据えて戦っていた」とさえ感じてしまう。西南戦争に際して、西郷は「ようやく死に場所が見つかった」と長年の胸のつかえがおりたのかもしれない。

また、そんな西郷のもとには、旧庄内藩の藩士たちも志願兵として集まってきた。旧庄内藩は、東北戊辰戦争の戦後処理において「敵将の西郷がくだした意向のおかげで寛大な処分ですんだ」ことから、今でも西郷を心から敬愛してやまない人たちが多い地域である。西南戦争から12年後に大日本帝国憲法の発布にともなう恩赦によって西郷の逆賊の汚名がそそがれるやいなや、旧庄内藩家老の菅実秀(すげさねひで)らの有志たちがかつて鹿児島を訪れて私淑した西郷の言葉や教えを『南洲翁遺訓』としてまとめているほど心酔している。ただ、この寛大な処分にはカラクリがあったといわれている。当時の庄内藩には北前船で巨万の富を築きあげ、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた本間家があった。その大富豪の財力に着目した西郷が、スポンサーとして明治新政府の運営資金を出してもらう代わりに藩の処分を軽くしたのだという。そんな西郷の打算とは裏腹に、恩義を感じて西郷に心酔する旧藩士たち……知れば知るほど歴史は興味深い。

城山での西郷軍との戦いで指揮をとった山県有朋

西南戦争において西郷は、皮肉なことに自分が手塩にかけて整備した明治政府軍によって死地に追いやられてしまう。しかも、最後の決戦地となった城山で政府軍の指揮をとっていたのは、自分がなにかと世話を焼いて取り立ててやった長州藩の山県有朋だった。城山での激戦のあと、西郷の首実検まで担当した山県は、なんとその21年後の上野公園での西郷隆盛像の除幕式において、時の内閣総理大臣として祝辞を述べている。合縁奇縁というのは妙なもので、「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものである。

西南戦争と太平洋戦争の類似性 歴史に学ぶ賢者を育てよう!

負け戦とわかっていて出陣する西南戦争での薩摩軍の姿は、東北戊辰戦争における会津藩と重なって胸が締めつけられる。その薩摩軍の敗因のひとつが、武器や食料などの物資不足だとされている。薩摩軍が追い詰められていく消耗戦は、太平洋戦争の際の日本軍に似ているそうだ。作家の司馬遼太郎さんは「太平洋戦争での敗戦に至る縮図が、すでに西南戦争にあった」と指摘しているが、なるほどと納得してしまう。太平洋戦争では、戦いにまつりあげられた「西郷」が「昭和天皇」に、物資がないのに遮二無二突進する「桐野利秋以下のリーダー」が「東条英機率いる軍部」にすり替わったようなものである。

作家の半藤一利さんによると、日本の政権や組織が滅んでいくときの共通点は、まず「こういう事態があるかもしれない」ということに対して目をつぶり、次に「それがあると困るから、ないと思っちゃおう」と勝手に解釈をねじ曲げ、最後は「ないんだ!」と思いこんで突っ走ることだという。田原坂の戦いのあとの薩摩軍も、ミッドウェー海戦のあとの日本軍も、末期的な物資不足の状況だったことは否めない。残念なことに、西南戦争は太平洋戦争への教訓とはならなかった。プロシアの鉄血宰相とよばれたビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言が耳に痛い。

西南戦争最大の激戦となった「田原坂の戦い」

数か月に及んだ西南戦争は、西郷の自刃をもって終結した。薩摩軍の敗戦は、すでに士族の時代が終わったことを物語っていた。ほとんど農民で構成されていた政府軍が勝利したため、士族の専売特許だった軍事への執着心や固定観念が崩れてしまったからだ。西南戦争以降、不平士族たちは「もはや武力で政府に訴えるのは無理だ」とあきらめ、自由民権運動へと舵(かじ)を切っていく。

西南戦争の終結によって、ようやく明治政府のめざす中央集権が完成し、明治維新は一段落したかに思えた。そんな矢先、大久保利通が不平士族の暴漢に襲われて命を落とす。死線をさまよう大久保の懐には、西郷からの手紙が大事におさめられていたといわれている。手紙に関しての真偽のほどは定かではないが、「袂(たもと)を分かった盟友のふたりが、心の奥底ではつながっていた」というこのエピソードは、西南戦争の醜い部分をやわらげる一服の清涼剤として、私の心をほっこりさせてくれる。

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