源頼朝によって創設された鎌倉幕府。約150年続いた幕府の歴史のなかには、鎌倉殿を合議制で補佐した13人の人物がいました。今回は、合議制ができた経緯や鎌倉殿を補佐した13人の人物についてご紹介します。
十三人の合議制とは
十三人の合議制とは鎌倉幕府の集団指導体制のことを指します。頼朝の死後、わずか18歳で地位を継承した源頼家は従来の慣例を無視した独裁の傾向が強く、御家人たちの反発を招きます。そのため合議制という仕組みを決定し、頼家独裁の抑制を図りました。この合議制のメンバーに選ばれたのが、宿老と呼ばれる有力者13人です。
十三人の合議制の構成者
十三人の合議制に就いた有力者とはどのような人物だったのでしょうか。それぞれの人物についてみていきましょう。
北条 時政(ほうじょうときまさ)
頼朝が創設した鎌倉幕府の初代執権。伊豆国出身の豪族である北条氏一門で、頼朝の妻となる北条政子や鎌倉幕府第2代執権・北条義時の父にあたります。
もともとは平氏の流れを持つ家系であり、頼朝の流人時代には監視役を務めていましたが、平家打倒に立ち上がった頼朝と共に平家へ反旗を翻します。頼朝の死後、嫡流が断絶したことによって執権職が鎌倉幕府の実質的な支配者となり、時政は一代で北条氏を鎌倉幕府の権力者に押し上げました。
北条 義時(ほうじょうよしとき)
北条時政の次男で鎌倉幕府の第2代執権。流人時代の頼朝と結婚した政子は義時の姉にあたります。挙兵した頼朝に従い平家打倒に尽力。頼朝亡き後は第2代将軍・頼家の独裁を抑えるため十三人の合議制の1人となりました。
源氏の将軍が途絶えた後、鎌倉幕府の実質的な支配者となるも朝廷との対立は激化。後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が発され朝敵とされましたが、京に軍を進め朝廷を制圧しました。
大江 広元(おおえのひろもと)
出自は諸説あり不明ですが、もともと下級貴族として朝廷に仕えていました。後に頼朝の側近となり鎌倉幕府創設に貢献します。公文所の政所や初代別当を務めるなど実務官僚として才を発揮し、守護や地頭を頼朝が設置したのも広元の献策によるといわれています。
頼朝の死後は政子や執権・義時と協調路線をとり、承久の乱では政子と共に主戦論を主張し幕府軍を勝利に導きました。
中原 親能(なかはらのちかよし)
頼朝の招きに応じて側近となった下級貴族。実務官僚として鎌倉幕府創設に尽力した大江広元の兄といわれています。頼朝の代官として奔走し朝廷と幕府の折衝役を務め、公家との交渉で大きく貢献をしました。文官御家人として軍事や行政を補佐、京都守護や政所公事奉行などの重職も歴任しています。
二階堂 行政(にかいどうゆきまさ)
藤原南家乙麻呂流・工藤行遠の子で、母は熱田神宮大宮司藤原季範の妹。建久3年(1192)建立された永福寺(二階堂)の周辺に邸宅を構えたことが苗字の由来です。文官として広元、三善康信、親能らとともに初期鎌倉政権を支えた実務官僚の1人で、二階堂行政の子孫は代々政所執事を務めています。
三善 康信(みよしのやすのぶ)
公卿出身の康信は、母が頼朝の乳母の妹だった縁で、伊豆国で流人時代の頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていました。以仁王の挙兵の際にも使者を送り、平清盛が発した源氏追討の様子と、頼朝に急いで奥州に逃げるように伝えています。その後、頼朝から武家政務の補佐を依頼され、初代問注所執事として裁判事務の責任者となりました。
梶原 景時(かじわらかげとき)
桓武平氏の血をひく坂東八平氏の一つ、鎌倉氏の一族。もともと源氏に仕えていましたが、源義朝が敗北した平治の乱以降は平家に従っていました。石橋山の戦いで敗れ山中に潜伏する頼朝を発見するも見逃した縁もあり、後に頼朝の寵臣として鎌倉幕府で大きな権力を持ちましたが、頼朝死後の政争に敗れ幕府を追放されました。頼朝の弟・源義経と対立した人物としても名を知られています。
足立 遠元(あだちとおもと)
足立氏の祖にして武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族の出身。父・藤原遠兼が武蔵国足立郡に移ったことから足立を名乗ったとされています。平治の乱では源義朝に従い、源義平率いる17騎の1人として奮戦。鎌倉幕府に公文所が設置された際には、5人の寄人の1人に選ばれました。公文所はその名の通り公文の管理をおこなう組織で、武士でありながら文官的資質を持つ人物であったことがうかがえます。
安達 盛長(あだちもりなが)
鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖。安達盛長の妻は頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍。その縁で頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島で流人として過ごした時代から、盛長は側近として仕えていました。頼朝挙兵時には使者として奔走、下総国の大豪族・千葉常胤を味方につけるなどの活躍をみせます。頼朝と政子のあいだを取り持つなど、頼朝が心を許した数少ない人物です。
八田 知家(はったともいえ)
下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男として誕生。常陸国八田を本拠とし、保元の乱では義朝側について戦いました。源平合戦では源範頼率いる平家追討軍に従軍、文治5年(1189)の奥州合戦においても常胤と共に東海道大将軍として、奥州藤原氏を追い詰めました。義経の無断任官の際には、知家も右衛門尉に任官していたため、頼朝から罵倒されたエピソードを持つ人物でもあります。
比企 能員(ひきよしかず)
藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族で、頼朝の乳母である比企尼の甥。流人時代を含め長きに渡る頼朝への忠節の功として、比企尼は甥である能員を猶子とします。その縁で能員は頼家の乳父に選ばれ、頼朝の信任厚い側近としても仕えました。娘の若狭局が頼家の嫡子・一幡を産んだことで権勢を強めましたが、比企の乱において時政に一族もろとも滅ぼされます。
三浦 義澄(みうらよしずみ)
桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で三浦義明の次男。三浦氏は代々源氏に仕え、義澄も平治の乱では義平に従い奮戦しました。挙兵した頼朝の石橋山の戦いに向かうも、悪天候のため参戦できず引き返す途中で合戦が起こり、父・義明を失ってしまいます。頼朝の宿老となった後も、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦し武功をあげました。頼朝亡き後も、合議制の1人として第2代鎌倉殿を補佐、生涯を通して鎌倉幕府を支えました。
和田 義盛(わだよしもり)
義明の子である杉本義宗の子として誕生。代々源氏に仕える三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里を本拠としました。頼朝の挙兵に参加し、頼朝の初期武家政権発足の際には、軍事などを担う初代侍所別当に任じられます。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たした人物。御家人が乱を起こした際には北条氏に与した義盛でしたが、第2代執権・義時の手にかかり滅ぼされました。
鎌倉殿を補佐した13人
頼朝の死後に発足した十三人の合議制は、一般的に第2代鎌倉殿となった頼家の独裁を抑制するために作られたとされています。一方で、抑制だけでなく頼家の政策を補佐する役割も担っていたという見解もあります。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、この13人を含めた男女が権力の座を勝ち取るために様々な駆け引きを巡らせます。名だたる宿老がどのように立ち回っていくのか、今後の展開に注目ですね。
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