【浄岸院:竹姫】徳川吉宗に寵愛され、島津家に嫁いだ女性の一生

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【浄岸院:竹姫】徳川吉宗に寵愛され、島津家に嫁いだ女性の一生

歴史に名を残す人物には数奇な運命を辿った人も少なくありません。薩摩藩第5代藩主・島津継豊(しまづつぐとよ)の継室(後妻)となった竹姫もその一人でしょう。普通であれば穏やかな一生を過ごしていただろう竹姫ですが、将軍家と関わりをもったためにその人生は大きく変わっていきました。竹姫の一生とはどのようなものだったのでしょうか?
今回は、竹姫のうまれから嫁ぎ先が決まるまで、薩摩藩主との結婚、竹姫が与えた影響などについてご紹介します。

不運が続いた竹姫

竹姫が島津家に嫁ぐまでには紆余曲折ありました。その内容を振り返ると、不運続きだったといえそうです。

養女として江戸に入る

竹姫は、公家・清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)の娘として京で誕生しました。父の妹・寿光院(じゅこういん)は5代将軍・徳川綱吉の側室でしたが、子供に恵まれなかったことから姪の竹姫を養女にしたいと考えます。この頃ちょうど綱吉も紀州藩主・徳川綱教に嫁いだ一人娘の鶴姫を亡くしたばかりだったため、竹姫は将軍の養女として江戸城に迎えられました。

この当時の慣例では、将軍の側室が養女をとるのは異例だったといいます。そのためこの出来事は大きな話題を呼んだそうです。

2度、婚約者に先立たれ……

2人目の婚約者だった、有栖川宮正仁親王の肖像です。

将軍の娘として嫁ぎ先選びが始まると、竹姫はすぐに会津藩主・松平正容(まさたか)の嫡子である久千代(正邦)と婚約しました。しかし、久千代が同年中に早世したことから、2年後には有栖川宮正仁親王(ありすがわのみやただひとしんのう)と婚約。結納まで済ませましたが、またしても婚儀を目前にして親王が死去してしまいます。

その後、正室を亡くしていた8代将軍・吉宗から継室になるよう望まれましたが、竹姫は吉宗の大叔母にあたるため、大奥の首座である天英院(6代将軍・家宣の正室)から「2人の結婚は人道に反する」と猛反対され、この縁談も中断しました。

悪い噂で嫁ぎ先が難航!

竹姫との結婚を反対された吉宗は、彼女を自分の養女にして嫁ぎ先を探し始めます。しかし、過去2度も婚約者が没していることから、竹姫には不吉な噂が立っていました。また、将軍である吉宗と男女関係にあるという噂もあり、大名家や公家は竹姫との縁談を敬遠していたのです。このような事情から、彼女の嫁ぎ先はなかなか決まりませんでした。

薩摩藩主・島津継豊との結婚

難航の末、ようやく嫁ぎ先が決まった竹姫。このとき彼女はすでに20歳を超えており、この時代の女性としては晩婚だったようです。

財政難だった薩摩藩

享保14年(1729)薩摩藩主・島津継豊との縁組がまとまりますが、財政難の薩摩藩にとってこの縁組は災難でした。将軍家息女の婚家先となれば経済的に大きな負担がかかるうえ、継豊には長男・益之助が誕生したばかりだったのです。それでも、天英院が実家の近衛家を通してまで持ち掛けた縁談だったため、近衛家と婚姻関係にあった島津家はこの話を断り切れませんでした。

そこで薩摩藩は、「竹姫に男子が誕生しても世継ぎにしない」「隠居した前藩主が国に帰るのを許すこと」「江戸屋敷に水道を引くのを許すこと」という条件を要求します。

将軍・徳川吉宗から厚遇され……

徳川記念財団所蔵の、徳川吉宗像です。

厳しい条件を提示された徳川将軍家でしたが、吉宗は薩摩藩側が要求した無理難題を無条件に受け入れました。また、竹姫の住まい用として6890坪を無償で与えたり、結婚後に継豊を昇進させたりと特別待遇までしています。

そこまで厚遇された結婚でしたが、竹姫の住まいの造営費や200人以上いる女中の生活費などは薩摩藩が捻出する必要がありました。生活費だけでなく江戸城大奥との交際費もかさんだだめ、家老たちはだいぶ頭を悩ませたようです。しかし、この縁組で薩摩藩邸への玉川上水の分水が許可されるなど、薩摩藩は多くの利権を獲得しました。

孫の養育に尽力する

竹姫は継豊とのあいだに女子・菊姫をもうけます。しかし、夫婦仲は特別良くなかったようで、継豊は家督継承後に薩摩に帰って隠居し、竹姫は江戸に残り、2人はそのまま再会せず生涯を終えました。夫の死後は、益之助(のちの島津宗信)や義理の孫・島津重豪(しげひで)の養育に携わります。のちに8代藩主となった重豪が薩摩の気風を嫌って京・上方風の言語や作法をするよう命令を出したのは、竹姫の教育の影響だったといわれています。

竹姫が与えた影響とは?

不運を乗り越えて島津家に嫁いだ竹姫。彼女は周囲にどのような影響を与えたのでしょうか?

島津家の繁栄に尽くした

竹姫は継室として深く島津家に尽くしました。宗信の正室探しで尾張家との縁談を進めたり、重豪に一橋家の娘を迎えさせたりと、薩摩藩の外交官のように立ち回ったといいます。竹姫自身は世継ぎを望まれなかったため、それ以外のことに注力したのかもしれません。このような働きから、竹姫は島津家の繁栄に尽力したといえるでしょう。

徳川家と島津家の絆を深めた

島津重豪の娘で将軍正室となった広大院

嫁いでから40年以上島津家に尽くした竹姫は、重豪に娘が生まれたら徳川一門と縁組するよう遺言を残しました。この遺言は見事守られることになります。生まれてきた娘・茂姫(のちの広大院)は、一橋治済の息子・豊千代(のちの徳川家斉)と婚約。しかし、豊千代が次期将軍に決定すると、たちまちこの婚約が問題となります。将軍家は五摂家か宮家から妻を迎えるのが普通で、外様大名の姫が嫁ぐという前例はなかったからです。

重豪は、この結婚は義理の祖母である竹姫の遺言だと主張。竹姫が吉宗の養女だったことから幕府側もこの意見を無視できず、茂姫は11代将軍の正室となります。これ以降、徳川将軍家と島津家は関係を深めていきました。

天璋院篤姫の結婚を後押しした

竹姫が広大院を将軍家に嫁がせたことは、のちに維新に大きくかかわることになる天璋院篤姫の結婚を後押ししました。竹姫の結婚から江戸幕府終焉まで将軍家と薩摩藩の姻戚関係は長らく続きましたが、この関係性の基礎を築いた人物こそ竹姫だったのです。両家を深く結んだ彼女の行動は、外様大名である薩摩藩の発言力を増大させ、幕末期に薩摩藩が台頭する要因になったと考えられています。

 

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