歴史上に名を残す剣豪といえば誰を思い浮かべるでしょうか。腕の立つ剣士はたくさんいますが、戦国時代に剣で名を馳せた人物といえば塚原卜伝(つかはらぼくでん)でしょう。卜伝には、何度も真剣勝負に臨んだものの一度も刀傷を受けなかったという伝説が残されています。また、味わい深い逸話も現在まで語り継がれています。
今回は、卜伝とはどんな人物だったのか、そして残された逸話についてご紹介します。
塚原卜伝とはどんな人物か?
卜伝はその剣の腕前から、上州出身の兵法家・上泉信綱(かみいずみのぶつな)と並び、「剣聖」と呼ばれています。それほど凄腕だった卜伝は、どのような人生を送ったのでしょうか。
剣聖:塚原卜伝の生涯
卜伝は、卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に生まれました。卜部氏は古くから伝わる剣法「鹿島の太刀」を受け継いでいる家柄で、父親は鹿島神宮の神官である鹿島氏の四家老の一人でもありました。
そのような環境で生まれた卜伝でしたが、6歳ころに父の剣友・塚原安幹(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の養子となります。それと同時に、名前も新右衛門高幹と改めました。後には土佐守や土佐入道とも称しており、現在広く知られている「卜伝」も本名ではなく実家の本姓「卜部」から取った号となっています。
卜伝は覚賢から「鹿島古流(鹿島中古流とも)」を、義父の安幹から「天真正伝香取神道流」を学んだ後、16歳で武者修行の旅に出かけました。経験を積み実力をつけた卜伝は、1対1の勝負において200人以上を負かしたといわれています。
その後、祈願のために鹿島神宮に籠ったり塚原城の城主となったりしながらも、卜伝はたびたび修行に旅立ちます。まさに剣に生きた人生だったと言えるでしょう。卜伝の廻国修行には80人ほどの弟子が同行しており、大鷹が3羽、乗り換え用の馬も3頭引きつれた厳かな行列になっていたそうです。
将軍をはじめ多くの弟子がいた
多くの弟子がいた卜伝ですが、その弟子の中でも有名なのが、唯一相伝が確認されている雲林院松軒(うじいしょうけん/弥四郎光秀)や、それぞれ新しい一派を生み出すこととなった諸岡一羽(もろおかいちは/いっぱ)、真壁氏幹(まかべうじもと/道無)、斎藤伝鬼房(さいとうでんきぼう/勝秀)らです。
更に卜伝は後に将軍となった足利義輝・足利義昭にも剣術を指南したとされており、義輝には奥義の「一之太刀(ひとつのたち)」も伝授したようです。また、伊勢国司の北畠具教(きたばたけとものり)や、甲斐国の武田信玄・山本勘助にも剣の手ほどきをしています。
これほど多く有名な弟子を輩出したことを考えると、卜伝は剣の腕が立つだけではなく、人間としても慕われていたのでしょう。
卜伝の逸話で知られる「無手勝流」
剣聖といわれるまでになった卜伝は、講談のテーマとなり後世に広く知られるようになりました。その中に、卜伝の教えがわかる逸話が残されています。
「無手勝流」のあらすじ
有名な逸話の一つに、『甲陽軍鑑』の「無手勝流(むてかつりゅう)」があります。
琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになった卜伝は相手から決闘を挑まれましたが、のらりくらりとかわそうとします。この態度を「臆病風に吹かれて決闘から逃げるつもりだ」と受け取った剣士は、調子にのって卜伝を罵倒し始めました。
このままでは周囲に迷惑がかかってしまうと考えた卜伝は、船を下りて決闘を受ける旨を告げ、相手の剣士と二人で小舟に移動します。そして、近くの小島に船を寄せることになったのです。
足が立つくらいの水深になると、若い剣士はさっそく船を飛び下り島に急ぎました。しかし卜伝は島に入ることなく、それどころか船をこいで島から離れてしまいます。島に取り残されたことに気付いた剣士は卜伝を罵倒しましたが、卜伝は高笑いしながら「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言い残し、去っていったのです。
この逸話から学ぶ卜伝の教え
「無手勝流」という言葉は、卜伝の異名にもなっています。この言葉には、「戦わずに相手に勝つこと」「武器を使わずに相手に勝つこと」といった意味があります。無益な労力を使わずに作戦で勝つというこの言葉は、現代でもビジネスシーンなどに応用されています。
卜伝には3人の養子がいましたが、家督を譲る際も「無手勝流」が基準になったようです。ふすまを開けると木枕が上から落ちてくるという仕掛けで3人の息子を試してみると、次男と三男は剣を構えたり木枕を斬ったりしましたが、長男だけは仕掛けを見抜いて木枕を取り除きました。これを見た卜伝は、長男である彦四郎に家督を譲ったということです。
宮本武蔵との逸話について
同じく剣豪として知られる人物に宮本武蔵がいます。実は卜伝には、武蔵との逸話も残されているのです。
作り話として伝わっている
卜伝が食事をしている最中のこと、若い頃の武蔵が勝負を挑んで斬り込んできます。しかし、卜伝はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして、武蔵の剣を受け止めます。
なんとも情景が浮かんできそうな臨場感のある逸話ですが、残念ながらこれは作り話であることがわかっています。武蔵が生まれたのは卜伝がこの世を去った後のことで、二人が出会うことはありえないのです。
剣聖VS剣豪が知りたかった
このような逸話が生まれた背景には、「剣聖・卜伝」と「剣豪・武蔵」とでは、一体どちらが強いのか知りたいという民衆の強い気持ちがあったと考えられます。例えば戦国武将をモチーフにした創作物などでは、実際には時代が重ならない武将同士が夢の対決をする姿がよく見られます。それと同じように、もし二人が戦ったら……という人々の想像が、このような逸話を作りだしたのでしょう。両者ともに強い剣の使い手だからこそ、このような話が伝わるようになったのですね。
無敗の剣聖!一之太刀
無敗の剣聖として名を馳せた塚原卜伝は、「戦わずして勝つ」という教えを説いています。剣豪として知られる宮本武蔵との逸話が創作されたのも、卜伝が人々を魅了する素晴らしい人物だったからでしょう。人を殺めるためではなく、平和を願うための剣を教えた卜伝。その教えは彼を題材にした多くの創作作品とともに、これからも語り継がれていくでしょう。
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