【三国志で人気の陸遜】人物像と彼の功績を振り返る

世界史
【三国志で人気の陸遜】人物像と彼の功績を振り返る

今でも歴史好きの心をつかんで離さない『三国志』ですが、その壮大な物語の中にはさまざまな人物が登場します。劉備、曹操、孫権、軍師の諸葛亮(孔明)などは誰もが知っている有名な人物ですが、呉の孫権のもとで頭角を現し活躍した陸遜(りくそん)もまた、人気のある武将の一人といえるでしょう。
今回は、陸遜の人物像やその功績、彼の最期についてご紹介します。

陸遜とはどんな人物なのか?

陸遜は揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)で生まれました。陸氏は呉において四姓(朱・張・顧・陸)と呼ばれる有力豪族の一つで、彼が生まれたのはその傍系でした。
父親の陸駿は九江郡の都尉を務めており、人々に慕われる徳のある人物でしたが、陸遜が幼い頃に亡くなります。こうして本家の従祖父に当たる陸康を頼ることになった陸遜の人生は、そこから大きく動き出したのです。

若くして陸一族を束ねる

孫策
陸遜の従祖父・陸康を攻めた孫策です。

陸康は後漢王朝の廬江群の太守(群の長官)を務めていました。揚州を支配するようになった袁術(えんじゅつ)とは末子の陸績を通じて友好的な関係を築いていましたが、興平元年(194)に兵糧問題で対立、袁術の部将である孫策から攻められるようになります。そのため陸康は、陸績を陸遜に委ねて本籍である呉県に避難させました。その後、孫策に追い詰められた陸康が病に倒れたため、陸遜は後見人として陸一族を束ねることになったのです。

建安8年(203)、21歳になった陸遜は、孫策の弟・孫権に仕えることになります。文官、東曹と西曹の令史(秘書官)、海昌の屯田都尉などを経て海昌の統治も行うようになった彼は、農業と養桑を推奨し、干ばつで困窮した民に施しをするなどして人々の生活を支えました。

『建康実録』に描かれる人物像

中国魏晋南北朝時代の六朝の歴史について書かれた『建康実録(けんこうじつろく)』によると、陸遜は自分を顧みず主君や国家に忠義を尽くし、正直で厳粛な性格だったといいます。倹約家でもあり、亡くなった時は余分な財産が無かったのだそうです。父親も誠心のある人物だったことを考えると、父親譲りの性格だったのかもしれません。加えて、先見の明があった陸遜は、物事を用意周到に熟考するタイプだったようです。

陸遜の功績と足跡を辿る

優れた人格の陸遜ですが、彼のすごいところはそれだけではありません。戦いでもその力量を発揮していきます。

山越討伐で活躍する

後漢末期から三国時代、浙江・江蘇・安徽・江西・福建などの山岳地帯に住む山越(さんえつ)という勢力がいました。彼らは勇猛で、長らく王朝の命令に従いませんでしたが、陸遜の策によってついに屈服することとなります。

建安21年(216)、賀斉とともに山越の反乱を鎮圧した陸遜は、鄱陽(はよう)の反乱も鎮め、その功績が認められて定威校尉になりました。そんな彼を気に入った孫権は、自分の姪である孫策の娘を与えてめとらせるなど重用し、陸遜から政治的な意見を聞くようにまでなります。

陸遜は軍の強化と国内安定が急務だとして、山越を討伐し、それを味方につけて軍の精鋭を増やすことを提案しました。帳下右部署(親衛隊長)となった陸遜は自身の提案を実現すべく、會稽・鄱陽・丹陽を統治し不服従民を討伐していきます。その際、三つの郡の賊の中から兵士を募り、数万の精鋭は兵士に、力が劣るものは民戸に編入しました。こうして見事、軍の強化と国内安定の両方を成功させたのです。

呂蒙に代わって関羽を討つ

関羽
柳沢淇園によって描かれた関羽像。(東京国立博物館所蔵)

建安24年(219)、荊州(けいしゅう)で劉備の将軍・関羽と対峙していた呂蒙が、病気のため建業に戻ることになりました。そこで呂蒙の代理として、陸遜が偏将軍・右部督を務めることになります。というのも、呂蒙は陸遜の才能を認めており、そのことを孫権に伝えていたからです。
陸遜は謙虚な態度で、軍功をたたえる手紙を関羽に送りました。これにより関羽は、呉に対する警戒を緩めるようになります。陸遜はこの状況を報告するとともに関羽を倒す作戦を提案し、知らせを受けた孫権は関羽討伐を決断します。この作戦は成功し、関羽を討った陸遜は宜都に入って宜都太守を務めるようになりました。
このとき、劉備の任命した宜都太守・樊友(はんゆう)は逃亡しましたが、郡の長官や住民は陸遜に服従しています。陸遜は彼らに、呉の朝廷からもらった金銭や宝物を振る舞ったそうです。

夷陵の戦いと陸遜

黄武元年(222)、蜀の皇帝となった劉備は、関羽の復讐と荊州の奪還のため、呉との国境地帯に侵攻しました。大都督に任じられていた陸遜は、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら5万の呉軍を率いて劉備軍と戦いますが、これらの諸将は長い軍歴を持っていたり皇族の身分だったりしたため、陸遜を侮辱するような態度をとります。そのため何度か騒動が起きましたが、陸遜はその事態を孫権に報告しませんでした。一方で、諸将を信じていたため、彼らが敵に包囲されたときもあえて援護しなかったのです。

そのような状況の中、劉備は何度も呉軍を挑発してきました。しかし伏兵を見破った陸遜はそれに応じず、蜀軍が疲れたタイミングを見計らって火攻めで反撃、見事壊滅させて劉備を敗走させます。このときになって諸将はようやく陸遜を信頼し、畏敬の念を表したといいます。後になって諸将の勝手な振る舞いを知った孫権は、なぜ報告しなかったのかと問いましたが、陸遜はこのときも諸将を立てて謙虚な言葉を返しました。その言葉に感心した孫権は、陸遜に輔国将軍の官職を与えています。

石亭の戦いでの活躍

孫権
呉の初代皇帝となった孫権です。

黄武2年(223)、陸遜らの進言で孫権が皇帝に即位します。蜀では劉禅が皇帝に、諸葛亮が丞相として政権を握っており、国交が回復していました。この頃の陸遜は、蜀との外交文書を添削するなど、かなり特別な権限を孫権から与えられていたようです。
黄武7年(228)、孫権は鄱陽太守・周魴に、魏への偽装投降を命じます。これは、魏の揚州牧兼都督軍事・曹休を自分の領内に誘い込んで壊滅する作戦でした。実は、呉はたびたび曹休に辛酸をなめさせられていたのです。

曹休は長い軍歴を持つ人物だったため、周魴は徹底的に芝居をうちました。この演技にすっかりだまされた曹休は総勢10万の兵を率いて呉の石亭に進軍、これを知った孫権は陸遜を大都督に任命して自ら出陣します。曹休はだまされたことに気付きますが、撤退しては恥の上塗りになると考え交戦を続けました。その結果、陸遜は曹休の伏兵を大破し、追撃で1万人を超える兵を倒したのです。
この戦いでは、多くの兵糧、馬、車両、兵器が入手できました。凱旋した陸遜は、孫権から格別の待遇を受けたそうです。

二宮事件と陸遜の最期

孫権から大きく取り立てられ、出世していった陸遜。そんな彼も、最期の時を迎えることになります。その裏には、10年間に及ぶ政治闘争「二宮事件(にきゅうじけん)」が関わっていました。

事件の概要について

二宮事件は、「二宮の変(にきゅうのへん)」「南魯党争(なんろとうそう)」ともいわれる呉の政治闘争で、孫権の息子である孫和(そんか)と孫覇(そんは)の太子廃立争いのことを指します。この事件がキッカケで、呉は大きく衰退することになったのです。

孫権は長子・孫登(そんとう)を皇太子として立てていましたが、彼が33歳で病死してしまうと、その遺書の中で推薦された王夫人(孫権の寵愛を受けていた女性)の子・孫和を次の太子に立てます。赤烏5年(242)8月、その異母弟・孫覇を魯王(ろおう/中国で皇族が封じられた諸侯王としての王号)に立てると、家臣団に不満が起こったため、孫権は別々の宮を設置してそれぞれに幕僚をつけることにしました。しかし、孫覇はこうした待遇にも納得できず、太子とその支持者を恨むことになったのです。
魯王派(孫覇派)が太子廃立を主張する一方、陸遜をはじめとする孫和派はこれに対抗し、両者の対立は深まっていきました。そんな中、孫和母子に不満を抱いていた全公主が孫権にうそを吹き込み、孫和は孫権からの支持を失ってしまいます。また、孫覇派の楊竺が積極的に勧めたことで、孫権は孫覇の立嫡に同意したのです。
これを知った孫和は、事態をおそれて陸遜に助けを求めました。このため陸遜は、数回にわたって孫和を擁護する文書を提出しています。

陸遜の憤死

陸遜の絵
清朝の頃の書物に描かれている陸遜。

結果的に孫覇派の悪巧みは暴かれますが、厳しい取り調べを受けた末に処刑された楊竺の言葉が陸遜を苦しめることになります。楊竺は死の直前に、陸遜に関する20条の疑惑を告発しました。これにより陸遜は疑いをかけられ、孫権から何度も問責されることとなります。

この頃は魯王派による中傷が激しく、太子派の重要人物が次々に左遷されたり流刑されたりしたようです。赤烏8年(245)に陸遜はこの世を去りましたが、彼の死はこれらの出来事による憤死といわれています。
陸遜にかけられた疑惑は、その後、息子の陸抗によって晴らされました。孫権は彼の手を握り、涙を流して陸遜に対する謝罪を述べたそうです。その際、自分の送った手紙をすべて焼き払うように嘆願したのだとか。この事件がもう少し早く収束していたら、陸遜が憤死することもなかったのかもしれませんね。

三国志で人気の武将

『三国志』の中でも高い人気を誇る陸遜。彼は呉の優れた軍人であり、政治家でした。民のことを考えた言動からは、高い知性や温かい人柄が感じられます。それだけに、憤死という最期は惜しまれてなりません。後漢の武将として並んで称される周瑜(しゅうゆ)は若くして亡くなりましたが、陸遜は63歳まで呉に仕え、その才能を発揮しました。これから先も陸遜の人気は衰えることなく、希代の名将として称えられ続けることでしょう。

 

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