中国の歴史書「三国志」は、今でも人々を魅了してやまないコンテンツの一つです。三国志にはさまざまな英雄たちが登場しますが、その中でも有名なのが後漢末期から三国時代に活躍した武将・劉備玄徳(りゅうびげんとく)でしょう。彼は蜀の地につくられた蜀漢の初代皇帝になり、魏・呉・蜀による三国鼎立(ていりつ)の時代をつくったことでも知られています。
そこで今回は、劉備の生い立ちや人物像、彼の活躍と功績についてご紹介します。
蜀の初代皇帝:劉備
まずは劉備の生まれと生い立ちについて見ていきます。三国志に欠かせない彼は、一体どんな人物だったのでしょうか。
生まれと若き日の姿とは?
劉備は、延熹4年(161)涿(たく)郡涿県楼桑里(現在の河北省保定市涿州市)で生まれました。祖父・劉雄は皇帝の護衛から兗(えん)州東郡范県の令となり、父・劉弘も州郡の官吏を務めるなど活躍した人物でしたが、幼い頃に父が他界し、劉備は小豪族でありながら貧しい生活を余儀なくされました。そのため、母と敷物を織って暮らしていたそうです。
その人物像について
学生時代の劉備は口数が少なく、謙虚で感情を表に出さない人物だったといいます。しかし豪傑らと進んで交流したため、若者たちはこぞって劉備に近づいたのだとか。中山(ちゅうざん)の豪商だった張世平と蘇双は、このような姿を見て「ただ者ではない」と考え大金を与えたそうです。この資金のおかげで、劉備は仲間を集められたのです。若い頃から大物の片鱗が見えていたといえそうですね。
劉備の活躍とその功績とは?
幼い頃は貧しく苦労した劉備ですが、徐々に時代の表舞台へと登場していきます。彼の活躍や功績について見ていきましょう。
黄巾の乱で名を上げる
中平1年(184)、太平道信者による「黄巾の乱(こうきんのらん)」が勃発しました。劉備は関羽、張飛らと義勇軍を結成し、戦功をあげて中山国安熹県の尉に任命されます。その後も軍功を残し、下密県の丞、高唐県の尉、県令といった形でどんどん昇進していきました。
初平2年(191)、袁紹(えんしょう)軍との戦いで功績を残すと、公孫瓚(こうそんさん)の推薦で平原県の仮の令となり、後に平原国の相になります。劉備は人々を経済的に助け、身分の低い人間も差別しなかったため、とても慕われていたようです。
その後の興平元年(194)には豫州(よしゅう)刺史となり、陶謙の後を継いで徐州を所有することになりました。
呂布に攻められ曹操のもとに
徐州を治めるまでになった劉備ですが、曹操に敗北した呂布(りょふ)を迎え入れたことで事件が起こります。かつての盟主・袁術からの攻撃に対応している間に、呂布に妻子を捕らわれてしまったのです。劉備は呂布と和睦して小沛(しょうはい)へと移り、1万余りの兵を集めましたが、これを不快に思った呂布から攻められ、さらに敗走することとなります。
そこで劉備は曹操を頼りました。曹操は劉備に地位を与え、再度小沛に入らせます。どうやら曹操は劉備を高く評価していたようで、「今この天下に英雄といえるのはお主と私のみだ」とまで口にしていたそうです。
しかし劉備はそんな曹操を裏切ることになります。実は宮中では曹操討伐の計画が進んでおり、漢の皇帝(献帝)を傀儡とする曹操の下につくことを良しとしていなかった劉備も仲間として引き込まれていたのです。多数の郡県が曹操に反旗を翻し劉備に味方すると、曹操は激怒して攻めてきました。しかし、頼りにしていた袁紹の救援を得られなかった劉備は曹操に敗れ、河北の袁紹陣営へと逃げ延びます。その袁紹も「官渡の戦い」で曹操に敗れたため、広大な荊州を治める同族の劉表のもとへ身を寄せました。
有名な”三顧の礼”
劉備と言えば、諸葛亮(諸葛孔明)を仲間に引き入れた「三顧の礼(さんこのれい)」が有名ですよね。
劉備は諸葛亮の友人・徐庶からその存在を知り、彼を連れてくるよう頼みました。しかし徐庶に「私が呼んだくらいで来る人物ではない」と断られたため、自ら3度家を訪ね、ようやく諸葛亮を仲間に迎えられたのです。
諸葛亮は「天下三分の計」を提案し、まずは曹操・孫権を避けて荊州・益州を領有するよう勧めました。これを聞いた劉備は諸葛亮にほれこみ、諸葛亮も劉備に仕えることを承諾したといいます。
赤壁の戦いで曹操を破る
建安13年(208)、孫権・劉備連合軍と曹操軍との争い「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」が起こりました。当初は孫権の陣営が曹操の大軍にひるむという一幕もありましたが、周瑜(しゅうゆ)による「曹操軍は水軍の戦いに不慣れなので疫病が発生する。また曹操の水軍は本心から服従していないのでこちらに勝機がある」という分析が奏功する結果となります。孫権は数万の水軍を劉備のもとに送ると、予想通り疫病に頭を抱えていた曹操軍を見事敗走させました。
夷陵の戦いの結末
赤壁の戦い後、劉備は荊州(けいしゅう)牧となり、荊州の支配権を奪って事実上の独立を果たします。そして建安26年(221)、蜀の群臣らに推され蜀漢の皇帝に即位しました。
ところがこの年の6月、劉備は呉の裏切りによって関羽を失ってしまいます。そのため劉備は、趙雲など重臣たちの猛反対を押し切って呉に対する復讐「夷陵(いりょう)の戦い」を敢行したのです。
当初は呉軍を追い詰めていた劉備軍ですが、陸遜の火計にはまり退路を断たれるなど苦境に陥ります。それでもなんとか白帝城に逃げ込むと、永安宮を建設し生涯そこに暮らしたそうです。後に孫権から和睦の要請があった際は、これを受け入れています。
三国志演義で知られる劉備像
三国志に基づく創作作品としては、小説『三国志演義』が有名です。ここでの劉備はどのように描かれているのでしょうか。
名シーン”桃園の誓い”
『三国志演義』では、黄巾の乱を鎮めるため、劉備・関羽・張飛が「桃園の誓い」を結び義勇軍を立ち上げるシーンが描かれています。これは「桃園結義(とうえんけつぎ)」とも呼ばれています。
黄巾軍討伐の兵士募集の高札を見た劉備が己の無力さにため息をついていると、張飛が「一緒に立ち上がろう」と提案して酒に誘ってきました。酒場で関羽と合流した後、3人は意気投合し「義兄弟の誓い」を交わして同志らと宴会を繰り広げます。
生死を共にすることを宣言したこの「誓い」は創作といわれていますが、史実としても劉備は、兄弟のように2人に接していたようです。
義兄弟の敵討ちに奔走する
関羽と張飛の死後についてはこのような描写があります。
魏呉連合軍に関羽を殺され、また張飛を殺した部下が呉に逃亡したことで、劉備は激怒して「義兄弟」の敵討ちに奔走することになりました。このときの劉備側は75万という大軍でしたが、陸遜の作戦によって大敗してしまいます。劉備は白帝城へ逃げた後、後悔にさいなまれながら病気に苦しみました。そのとき夢に関羽と張飛が現れ、「兄弟三人がまた集うことになるだろう」と口にしたことで自分の死期を悟ったといいます。彼は後のことを諸葛亮に託すと、この世を去りました。
義理人情に熱い男として描かれる
『三国志』の主人公ともいえる劉備は、天下統一を成し遂げることはできませんでしたが、漢復興を目指して貧しい生活から身を起こし、蜀漢の初代皇帝となりました。
彼にはこんなエピソードも残されています。曹操軍から逃亡する際、住民十数万が劉備に付いてきましたが、このままでは歩みが遅いので住民を捨てるよう進言する者がいました。しかし劉備は、「私に付いてきた人々を捨てるわけにはいかない」と言ったそうです。このような義理人情の厚い性格が人々の心を捉えたのでしょう。劉備は現代でもさまざまな創作作品に登場し、人気を博しています。
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