第13回「坂本龍馬は勝海舟を本当に斬ろうとしたのか?」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】

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幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第13回のテーマは「坂本龍馬は勝海舟を本当に斬ろうとしたのか?」です。

海舟邸を訪れた龍馬

勝海舟・坂本龍馬師弟像 (港区赤坂)

文久2年(1862)12月9日、土佐脱藩の坂本龍馬が幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪れました。このときの龍馬の目的は、海舟を斬ることにあったとよくいわれます。

当時の日本にあっても人を殺害するというのは大変なことだったはずですが、なぜそのようにいわれているのでしょうか。それは、ほかならぬ海舟自身がのちにそう語り残しているからです。

「坂本は俺を殺しにきたやつだが、なかなかの人物さ。そのとき俺は笑って受けてたが、落ち着いてなんとなくおかしがたい威厳があって、いい男だったよ」(「氷川清話」)

また、やはり海舟が維新後に著した「追賛一話」には、海舟と対面後の龍馬がこのように語ったと記されています。

「今宵のこと、ひそかに期する所あり。もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。今や公の説を聴き、大いに余の固陋を恥ず。請う、これよりして公の門下生とならん」

海舟の話しだいでは刺し殺すつもりだったが、実際に話を聞いてみて龍馬は自分の見識が狭かったのを知り、その場で門人となることを願い出たというのです。これらの海舟自身の証言を根拠として、龍馬が海舟を斬ろうとしていたことは、長く定説となっていました。

しかし海舟の場合、本人がそう語っているからといって、すべてが真実であるとみなすのは問題があります。海舟という人の性格によるのですが、維新後の談話には事実よりも大げさに語っていることがよくあるからです。
だから、龍馬とのエピソードも、あるいはそのたぐいの話なのではないか。ちょっとオーバーに脚色して、受けをねらったものではないかとも考えられてきました。

近年ではそういう見方のほうが有力になり、龍馬に殺意があったとする説は否定されるようになっています。以前とは定説が変わったといっていいでしょう。

松平春嶽の証言

しかし、この説には一つのウイークポイントがあります。それは、海舟がいくら話をおもしろくするためだったとしても、自分を殺しにきてもいない龍馬を、殺しにきたなどという必要があるのかということです。

海舟は確かに話を盛る(大げさにいう)ことの多い人ですが、事実と反することをいう人ではない。龍馬が自分を殺しにきたという認識がないのであれば、そういう冗談をいうはずはないのです。

やはり龍馬には殺意があった―少なくとも海舟はそう思っていた―可能性は残ります。

実は龍馬は海舟宅を訪問する前に、幕府政事総裁職の地位にある前福井藩主・松平春嶽の屋敷を訪れ、海舟あての紹介状を受け取っています。そのあたりの経過は、維新後に春嶽が土方久元にあてた手紙によれば次のとおりです。

「両士(龍馬・岡本健三郎)の東下せるは勝安房、横井平四郎の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの輿論を信じたるゆえなりと聞く。坂本、岡本両士、余に言う。勝、横井に面晤つかまつりたく、侯の紹介を請求す。余諾して勝、横井への添書を両士に与えたり。両士この添書を持参して勝の宅へ行く。両士、勝に面会し議論を起こして勝を斬殺するの目的なりと聞く」(明治19年12月11日付「土方久元あて松平春嶽書簡」)

この手紙は春嶽が維新後19年たってから書いたものであり、そのためか記憶違いの箇所も目立ちます。そもそも龍馬と同行した者も、近藤長次郎であるべきところが岡本健三郎と誤っています。
だから、手紙のなかで「勝を斬殺する」のが目的と書かれていても、龍馬に紹介状を書いた段階でそれを春嶽が把握していたかどうかは不明としかいいようがありません。あとから海舟に聞いた情報という可能性もあるからです。

ただ、龍馬が「勝安房、横井平四郎の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの輿論(世論)を信じ」ていたという部分は信頼してもいいでしょう。海舟と横井が暴論をとなえ、それを龍馬は問題視していた。その問題点をただすため、龍馬は紹介状を持って海舟宅を訪れたという流れがここから見えてくるからです。

開国論者・勝海舟

万延元年(1860年)の渡米時にサンフランシスコで撮影された勝海舟の写真

では、海舟がとなえていたという「暴論」とはいったい何なのでしょうか。
このころの海舟は日本初の海軍創設を計画し、国防のために尽力しており、一方の龍馬も春嶽に対面したときに「大坂近海の海防策を申し立てたりき」(「続再夢記事」)と記録されています。つまり、国防の基本線としては二人の間に意見の相違はなかったのです。

それでも龍馬にとって「暴論」と思えた海舟の持論というのは、いわゆる「開国論」であったと考えられます。

海舟は外国勢力に対して防衛を堅固にする一方で、広く外国と交易をして利益を得るべきという意見をとなえていました。当時の幕府において、こうした開国論者の代表的存在だったのが海舟でした。

国防を強化して外国を排除する攘夷論と、外国と交易して利益を得る開国論は、海舟にとっては矛盾することなく成り立つものでした。しかし、この時点での龍馬の思想はそこまで成熟しておらず、単純な攘夷論にとどまっていたと考えられるのです。

だから龍馬は、海舟を日本を外国に売り渡す危険思想の持ち主とみなし、「議論」(前掲・春嶽書簡)を戦わせるために海舟邸を訪問したのでした。そして海舟の広い見識と、卓越した意見に目を見開かされ、その場で入門を願い出ることになったのです。

その際に、あるいは龍馬は「追賛一話」にあるように「海舟先生の話しだいでは先生を刺そうと思っていました」というようなことをいったかもしれません。これはもちろん冗談ではあるけれど、龍馬の気分としてはまったくの冗談でもない。だから海舟は維新後何年たっても、「坂本は俺を殺しにきたやつだが――」と嘘偽りない気持ちでいうことができたのでしょう。

龍馬が海舟を斬ろうとしたのは事実とはいえないけれども、海舟のほうではそう思っていた。このエピソードが語られた背景には、そんな実情があったのです。

 

「世界一よくわかる坂本龍馬」(著:山村竜也/祥伝社)


幕末維新の英雄としてあまりにも有名な坂本龍馬。しかし、これまでは過度に美化されてきたところも。NHK大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」の時代考証家が史料を読み込み、人間・龍馬の真の姿を解き明かす。

 

 



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