戦国武将の中でも圧倒的な知名度を誇るのが織田信長でしょう。そんな信長の正室となったのが、美濃国の戦国大名・斎藤道三(どうさん)の娘である濃姫(のうひめ、のひめ/帰蝶)です。
道三は油売りから身を興し、次々と主君を倒して美濃を奪取した戦国時代の下克上の典型といわれる人物でした。権謀術数にたけた父により信長と政略結婚させられた濃姫は、一体どのような人生を歩んだのでしょうか。
今回は、その生い立ちや嫁いだ経緯、また信長との夫婦仲や夫の死後の様子についてご紹介します。
織田信長の妻:濃姫とは?
信長の妻である濃姫については、ほとんど記録が残されていません。濃姫とはどのような人物だったのでしょうか。
呼び名について諸説あり
濃姫という呼び名は、『絵本太閤記』や『武将感状記』に登場したことから広まりました。しかしこれは「濃州(美濃国)の高貴な女性」という意味であり、通称にすぎません。
実際の名前には諸説あり、『武功夜話』では「胡蝶(こちょう)」、江戸時代成立の『美濃国諸旧記』では「帰蝶/歸蝶(きちょう)」とされています。
加えて『美濃国諸旧記』の中には、鷺山(さぎやま)城から古渡(ふるわたり)城の信長のもとに嫁いだため「鷺山殿(さぎやまどの)」と呼ばれていたとの記載もあり、これは明確な由来もあるため信憑性があると考えられます。また最近では、「安土殿」と呼ばれていた女性が濃姫ではないかという説もあります。
濃姫の生まれと生い立ち
濃姫は、父である道三とその正室・小見の方(おみのかた/こみのかた)の間に生まれました。道三は、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりあき/よりなり/よりよし)を追放し、その兄弟を殺害して美濃国主となったといわれています。一方、小見の方は東美濃の名家・明智氏の出身で、明智光秀の叔母にあたります。つまり濃姫と光秀はいとこの関係になりますが、光秀の出自については諸説あるため、正確なところは定かではありません。
『美濃国諸旧記』によれば濃姫は天文4年(1535)の生まれで、信長の一つ年下になります。
織田信長に正室として嫁いだ
濃姫の輿入れには父親である道三の思惑が隠されていました。政略結婚で信長に嫁いだ彼女にとって、夫との生活はどのようなものだったのでしょうか。
濃姫を嫁がせた父の思惑
道三は美濃国盗りの際、信長の父・織田信秀と大垣城を巡って何度も戦いました。しかし決着がつかなかったため、和睦をはかることとなり、濃姫と信長の縁談がまとまったのです。この政略結婚の裏には、濃姫に織田家のスパイをさせようという道三の思惑があったといわれています。また信長側にも、道三の力を勢力拡大に利用するたくらみがあったと考えられているのです。
織田家に嫁ぐ際、道三は濃姫に短刀を渡し、信長がなにかたくらんでいたら刀で刺すように告げたといいます。それを受けた濃姫は、承諾するとともに「もしかするとあなたを刺すかもしれない」と答えたのだとか。創作物では気が強い女性として描かれる濃姫ですが、このくらいの気概が必要な時代だったのかもしれませんね。
信長と濃姫の夫婦仲は?
また『絵本太閤記』と『武将感状記』にはこのようなエピソードが残されています。それは濃姫が織田家に嫁いで1年ほどたった頃のこと、信長が寝所を出て朝方に帰ってくるという行動を1カ月も続けたため、彼女は浮気を疑って夫に理由を尋ねました。すると信長は、「道三に対して謀反を起こす計画がある美濃の家老から連絡を待っている」と答えたそうです。
これを聞いた濃姫は、道三に密書を送りその旨を伝えました。この話を信じた道三は家老たちを処罰しましたが、これは斎藤家を弱体化させる信長の策略だったのです。なんとも殺伐とした夫婦エピソードですが、実際は家老を殺害したという記録はないようです。
通説によると、二人の間には子ができず、側室が産んだ奇妙丸(信忠)を養子に迎え嫡男としたとされています。夫婦仲については明らかではありませんが、普段は二人で山頂に住んでいたことが当時の文献資料でわかっています。
濃姫のその後について
濃姫についての史料は非常に少なく、その実像については謎に包まれています。当時は女性について記載されることが珍しかったため、これは仕方ないことなのかもしれません。
『信長公記』やその他の史書に入輿(じゅよ)の短い記述があるだけの濃姫ですが、その分さまざまな憶測をよんでいます。
正確な没年や墓所は不明
没年や墓所については不明とされており、数少ない史料から「早世説」「戦死説」を含む三つの死亡説が挙げられています。
死亡説の一つは、結婚から「本能寺の変」が起こった天正10年(1582)の間に何らかの理由で亡くなったという説です。これは濃姫が織田家の行事に登場しなくなることが理由ですが、確実な証拠はありません。
また『濃陽諸士伝記』によると、道三を倒した斎藤義龍(よしたつ)の娘に馬場殿という美女がおり、信長から側室にしたいという申し出があったそうです。しかし馬場殿は信長の妻の姪だったため、「其妻死後に遣り難し」「土岐氏嫡流である当家の名が廃る」と拒否したところ、立腹した信長が何度も稲葉山城に攻め込んできたといいます。この話を信じるなら濃姫は28歳前後に亡くなり、別の人物が信長の正室になっていたことになりますが、この早世説は整合性に乏しいと考えられています。
加えて岐阜県岐阜市不動町には、本能寺の変から逃れてきた信長の家臣が濃姫の遺髪を埋葬したという「濃姫遺髪塚(西野不動堂)」があります。これが戦死説につながっています。
信長死後も生存説がある
死亡説とは反対に、生存説も存在しています。
『言継卿記(ときつぐきょうき)』では「近江の方をかばう信長の妻」や「しゅうとに会いにいく信長」といった記載があるため、これが濃姫の生存を意味するのではないかと考えられています。
また『総見院殿追善記』にも安土城から落ち延びた北の方(正室)といった記述が、寛永年間成立の『氏郷記』でも本能寺の変の直後に「信長公御台君達など」を避難させたという記述がみられます。『妙心寺史』には天正11年(1583)6月2日に信長公夫人主催で一周忌が行われたとの記録があり、これが濃姫を指す可能性もあるとされています。
謎多き姫……
謎の多い濃姫ですが、信長の正妻として嫁いだことは間違いありません。現在確認できる史料には、勝者の視点で書かれたものや創作も含まれるため、何が真実か特定するのはなかなか難しいでしょう。しかし、少ない史料からどのような人物だったのか思いをはせるのも、歴史の面白い部分ですよね。
濃姫の生存説については、近年、個人を特定しようとする動きも出てきているようです。彼女の存在は今後も戦国ミステリーとして研究されていくことでしょう。
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