幕末の偉人たちの肖像画の多くを手がけていたのが、政府のお雇い外国人だったことをご存知でしょうか。彼の名はエドアルド・キヨッソーネ。イタリアからやって来ました。彼が描いた肖像画は多く、あの西郷隆盛を描いたのもキヨッソーネでした。
キヨッソーネはなぜ日本に来て、どんな仕事をしていたのか・・・彼の生涯に迫りましょう。
イタリア生まれの優秀な画家・版画家
キヨッソーネは1833年にイタリアのジェノヴァ近郊・アレンツァーノに生まれます。銅版画の彫刻を学び、パリ万博での受賞歴もある優秀な画家・版画家でした。
イタリア王国国立銀行を経て、ドイツの紙幣印刷会社であるドンドルフ・ナウマン社に出向。ここで日本とのコネクションができました。
ドンドルフ・ナウマン社は明治政府の紙幣も作っていたため、キヨッソーネもそれに関わっていました。明治政府は偽造されない紙幣を自国で作りたいと考えており、そこでキヨッソーネを直接招聘することにしたのです。条件は超破格で、給料は政府の重鎮・大久保利通よりも高額だったそうですよ。行くしかないですね、これは。
そして明治8年(1875)にキヨッソーネは来日しました。大蔵省紙幣局(今の国立印刷局)で印刷技術の指導を行い、日本の紙幣や切手の印刷に関わったのです。そのかたわら、若者に西洋美術の薫陶も授けたのでした。
写真嫌いの明治天皇の肖像画を手がける
キヨッソーネの美術の腕は政府に見込まれ、明治21(1888)年には明治天皇の肖像画の制作を依頼されます。
明治天皇はとにかく写真が大嫌いで、政府としては困っていたわけですね。肖像画のモデルになるのも嫌がられたようで(陛下・・・)、キヨッソーネは天皇の行幸(ぎょうこう)の際、遠くからこっそりとスケッチし、天皇の正装を宮内省から借り受けて、それをもとにして肖像画を完成させたのでした。
この姿が明治天皇の御真影(天皇の肖像画を敬った言い方です)として、世の中に広まったのです。
西郷隆盛の肖像画にまつわる話
西郷とは面識もなく、写真も残っていなかったため、キヨッソーネは西郷の弟・従道(つぐみち)と従弟・大山巌(おおやまいわお)をモデルにして肖像画を描き上げました。それが、いま私たちが西郷隆盛のイメージとして持っている姿なのです。
ところが、西郷の奥さんの感想は「なんか違う」。まあ、それはそうですよね・・・。
ほかにもホントに色々描いてます
西郷の肖像画の他、キヨッソーネは長州藩兵を指揮した兵学者・大村益次郎(おおむらますじろう)の肖像画も描いています。やはりこれも死後の話だったため、関係者の説明や証言をもとにしています。ちょっと頭が大きすぎるような気がしますが・・・。いや、聡明な大村なのできっとそうだった、はず。
また、キヨッソーネは紙幣に印刷する偉人の肖像画も手がけました。しかし、そんな昔の人の顔がわかるわけもなく、やむなく近くにいた人たちをモデルにしたのだそうです。
例えば藤原鎌足は松方正義を、和気清麻呂は木戸孝允を、武内宿彌は佐田清次(当時の印刷部長)を、神功皇后はなんと印刷部の女性職員をモデルにしたとか。
本当に、近くにいた人ばっかりなんですね・・・でもこれはこれで面白いかもしれません。
キヨッソーネは雇用終了後も日本に留まり、明治31(1898)年に死去し、青山墓地に葬られました。晩年は日本の美術・工芸品の蒐集に当たり、死後それらはイタリアに送られ、今はジェノヴァのキヨッソーネ東洋美術館に収蔵されています。
彼の手がけた肖像画のイメージが今日の私たちの頭の中にまだ残されていること、これってすごいことだと思いませんか?
(xiao)
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