モンゴル帝国が、海を越えて鎌倉時代の日本に侵攻してきたことをご存じでしょうか。後に「元寇(げんこう)」と呼ばれることになる、日本史上有数の危機的な出来事です。モンゴルは人類史上、最大級の規模を誇った帝国で、その艦隊も当時の世界で最大の規模だったといわれます。その襲来を2度にわたって退けたことで英雄と称されたのが、北条時宗(ほうじょうときむね)です。
今回は、元寇の名の由来やそれが起こった歴史的背景、時宗がこの国難にどのように立ち向かったのかについてご紹介します。
元寇とは?由来と名称について
歴史上の戦争や騒乱の名称には、争いのあった土地や、争いを起こした人物の名が用いられることが多くありますが、「元寇」とはどういった類いの名称なのでしょうか。概要や由来について見ていきましょう。
元寇の由来とは?
元寇の「元」は、モンゴル人による中国の征服王朝である元を指し、「寇」には「外から害を加える」「外から攻め込む」といった意味があります。つまり、元王朝が海外から侵攻してきたという意味を表す言葉が元寇というわけです。
『蒙古襲来』などと呼ばれる
ただし、元寇という言葉は後の世でつけられたもので、当時は「蒙古襲来」「異賊襲来」などと呼ばれていました。「蒙古」は地域を表す言葉で、位置はシベリアの南、中国の万里の長城より北に広がるモンゴル高原の辺り。これが蒙古襲来といわれたゆえんです。
また、「異賊」には外来勢力といった意味があるので、どちらも元寇とほぼ同義語といえるでしょう。
元寇が起こった背景とは
モンゴル帝国は当初、日本の鎌倉幕府に対して修好を求めるアプローチをしていましたが、その内容は対等の関係を求めるものではなく、受け入れなければ許さないというような類いのものでした。そのため、礼を欠くとして日本側に拒否され、方針を侵略にシフトすることになります。
しかし、日本は海を越えた先にある島国です。内陸から興ったモンゴル帝国は、この時まだ兵力を渡海させる術や物量に乏しい状態でした。
相次ぐモンゴル帝国の侵攻
そうした事情もあり、モンゴル帝国は元寇に先んじて日本に近い地域にある高麗(こうらい)や樺太を制圧します。こうした地を拠点に、これらの国が持つ海上戦力や物資を取り込み、渡海の準備を整えて、いよいよ日本をターゲットとしました。
皇帝フビライの狙い
では、そもそもなぜ、わざわざ海の先にある日本を狙ったのでしょうか。その理由は主に二つあるとされています。
モンゴル帝国が大陸で支配地域を広げるうえで、中国の南に国を構える「南宋」は大きなハードルになっていました。そこで、皇帝フビライ・ハン(クビライ・ハン)はまず周辺地域を支配下に収める方法を画策。日本もその対象となっていたのです。
また、もう一つの理由として、マルコ・ポーロの東方見聞録にある、いわゆる「黄金の国ジパング」の言い伝えが影響し、金を求めたとの説もあります。
迫る異国の脅威と時宗の対応
こうした背景から元寇に対することとなった鎌倉幕府は、どのようにこの難局に臨んだのでしょうか。時の執権、北条時宗を中心に見ていきましょう。
異国警固番役を設置
モンゴル帝国からの強硬的な「修好アプローチ」に歩み寄らない姿勢を取り続けた時宗は、緊張感が高まる文永8年(1271)、異国警固番役を設置しました。これは、九州の御家人に課した軍役のことで、モンゴル軍の襲来を警戒して、上陸してくる可能性のある地域に軍備を整えさせるものでした。
「文永の役」での決断
異国警固番役の設置から3年後の文永11年(1274)、ついにモンゴル軍が日本に襲来します。これが世にいう「文永の役」です。
対馬や壱岐など諸島を制圧して意気揚々と博多湾に上陸したモンゴル軍でしたが、日本側は地の利を生かした集団戦法や、モンゴル軍の攻撃射程の外からの長弓攻撃で勢力を挽回。多くの犠牲を出しながらも、内陸での進撃を阻止することに成功しました。
その後、モンゴル帝国は再び日本に使節団を送るなど懐柔を図りますが、時宗は幕府内の反対派を押し切って使節をことごとく処刑します。示威の姿勢を明確にして、徹底抗戦の構えを見せたのです。
「弘安の役」での勝利
こうした背景から弘安4年(1281)、モンゴル軍は再び日本への侵攻を試みます。これが「弘安の役」です。
前回の3倍以上ともいわれる大軍勢、兵力約15万人、軍船約4400隻で攻め込んできたモンゴル軍に対し、時宗は自身の名義で作戦指示を出し、御内人を派遣して部隊の指揮をとらせて対抗します。
また、再度の侵攻に備えて事前に異国警固番役を拡充させ、20キロメートルにもおよぶ石塁を構築していたことで、モンゴル軍の上陸阻止に成功します。さらに日本軍は、わずかな上陸ポイントについてもゲリラ戦を仕掛けてモンゴル軍を後退させると、後退先の島にも夜襲を敢行して敗走させました。
そして、ここにとどめを刺すかのように降り注いだ天災が台風でした。上陸の失敗や2カ月にもおよぶ海上戦闘で疲弊極まっていたモンゴル軍には、これにあらがう力はなく、ついに退却するに至ったのです。
神風が吹いて勝利した?
「神風」と呼ばれる2度の台風が日本を救ったとされる元寇ですが、実際のところはそうした偶然の幸運ではなく、世界最大級のモンゴル帝国の圧力に屈しない時宗の強硬的判断と、侵攻に対する大々的な軍備、戦闘における地の利や戦術といった要因が大きく影響しました。
多大な犠牲を払ったことや、外国への敵視による国際意識の欠如が戦争を招いたという観点から、英雄視に対して評価が割れることもある時宗ですが、日本を守ったというのは事実。また、緊迫の状況下で軍政の枠を超えて国全体を動かすに至ったことは、その後の国家組織の基盤を築くきっかけになったと解釈することもできるのではないでしょうか。
時宗を中心に日本を守ろうとした人々の決死の思いに、最後の一押しとして神風が応えてくれた――ということなのかもしれませんね。
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