【鎌倉幕府を創った男とは?】源頼朝を紐解く9つのエピソード

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【鎌倉幕府を創った男とは?】源頼朝を紐解く9つのエピソード

令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、鎌倉幕府を舞台としたストーリーが展開されます。鎌倉幕府の創始者・源頼朝といえばあまりにも有名な人物ですが、そんな彼にもいくつかのミステリーが残されているのをご存知でしょうか?
今回は、頼朝の人生を変えた人物、性格がわかる逸話、頼朝にまつわる謎などについて、9つのエピソードからその生涯を紐解いていきます。

源頼朝とは?

鎌倉幕府創始者で初代将軍でもある頼朝は、源義朝と熱田大宮司・藤原季範の娘・由良御前との間に三男として誕生しました。妻は北条時政の娘・政子。平治元年(1159)に起こった平治の乱に敗れ伊豆に追放されるも、平家追討のため挙兵。鎌倉を本拠とした東国支配圏を確立し、源義仲や平家を滅亡させ、守護・地頭の設置により武家政治の基礎を固めました。

頼朝の人生を変えた3人の人物

偉業をなし遂げた頼朝ですが、その人生には何度か転機がありました。頼朝にとって重要な人物となった3人についてのエピソードをご紹介します。

仇敵・平清盛

歌川国芳による平清盛です。

保元の乱後の京では、二条親政派と後白河院政派が対立していました。そんな政情のなか、後白河上皇の側近・信西(しんぜい)が勢いを増し、両派のなかに彼を排斥しようとする動きが見え始めます。このとき、反信西派の藤原信頼が企てたクーデターである平治の乱に参加したのが、頼朝の父・源義朝でした。この戦いで義朝は敗退し、父と離れ離れになった頼朝は追手に捕まりましたが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願により清盛に命を救われます。清盛はのちにこれを後悔し、遺言に頼朝への憎悪をにじませたそうです。もしこのとき清盛が頼朝の命を奪っていたら、鎌倉幕府の成立もなかったでしょう。

妻・北条政子

平治の乱で助命された頼朝は、罪人として伊豆に流されました。そして、伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と恋に落ち結婚します。罪人であり敵でもあった源氏との結婚に政子の周囲は猛反対しましたが、政子の父・時政はのちに頼朝の挙兵にも尽力し、頼朝死後は執権として鎌倉幕府を支えました。また、政子自身も尼将軍と呼ばれるほどに影響力を強め、承久の乱では名演説で武士たちを奮い立たせたという逸話も残されています。頼朝以降の鎌倉幕府は、執権・北条氏が実権を握っていたことからも、政子は頼朝の人生にとって大きな存在だったといえるでしょう。

弟・源義経

中尊寺所蔵の源義経です。

頼朝の弟として有名なのが源義経です。2人は平治の乱で父・義朝が敗死したあとに離れ離れになりましたが、治承4年(1180)頼朝が伊豆国で挙兵する際に感動の再会を果たします。義経は頼朝とともに戦い、その後の平家追討でも連勝するなど軍才を発揮しました。しかし、2人は朝廷の思惑なども絡んでやがて対立。お互いに征伐することとなり、追い詰められた義経は自害しました。後世、義経のエピソードは「判官びいき」という言葉を生み出し、悲劇のヒーローとして高い人気を誇るようになります。このような義経人気もあり、頼朝の功績がかすんでしまった可能性もありそうです。

頼朝の性格がわかる3つの逸話

頼朝はどのような性格の人物だったのでしょうか?彼の性格がうかがえる逸話をご紹介します。

前線には出ない!?戦略的なリーダー

頼朝は父譲りの弓の技術がありながらも、前線で戦うことは少なかったといわれています。日本史上には合戦で自ら猛進して武功を上げるような有名武将も多く、それに比べると頼朝はあまり派手さがないかもしれません。しかし、独立心の強かった東国武士を一つにまとめ全国支配のきっかけを作った功績を考えると、戦略に長けた優れたリーダーだったといえるでしょう。

質素倹約!贅沢は許さない

頼朝は倹約を推奨していたようで、このようなエピソードが残されています。あるとき、側近の一人が贅沢な衣装を身につけているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落としてしまいました。そして、「衣類にお金をかけるのは、財産の使い方を知らず身の程をわきまえていない」と叱咤したといいます。のちに江戸幕府を開府する徳川家康も質素倹約を推奨していますが、家康は頼朝を尊敬していたようです。

女性関係はルーズすぎて……

頼朝は政子と恋愛結婚しましたが、それ以前にもほかの女性と関係があったといわれています。まだ罪人だったころ、監視役だった豪族の伊東祐親の娘・八重姫との間に子供をもうけ、祐親の逆鱗にふれ引き離されたのだとか。頼朝の女性関係のエピソードはこれだけにとどまらず、政子との結婚後も複数の女性と関係をもち、寵愛していた亀の前については政子から激しい怒りを買うなどのエピソードも残されています。

頼朝にまつわる3つの謎

頼朝には未だ解明されていない謎も残されています。彼にまつわる謎についてご紹介します。

実はイケメンだった!?

鎌倉時代に書かれたとされる『平治物語』や『源平盛衰記』には、頼朝の容貌について「美しい」という記載があります。また、彼は年齢より大人びていたのだとか。残された甲冑からの推測では、当時の平均より高身長だったことがわかっています。時代によってどのような容姿が好まれるかは変わってきますが、もしかすると美青年として目立つ存在だったのかもしれません。

有名な肖像画は別人?

足利直義を描いたとされる神護寺所蔵の肖像画です。

従来、頼朝を描いたとされている京都神護寺所蔵の肖像画は、足利直義を写したものだとする説があります。そのため、現在は一部の教科書からは消えているようです。また、鶴岡八幡宮の白山明神に伝わる狩衣姿の木像は頼朝像とされており、現在、重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。そのほかにも武田信玄が創建した甲斐善光寺に木造源頼朝坐像が伝わっており、現存最古の頼朝像と考えられていることから評価が高まっています。

落馬?暗殺?糖尿病?死因は不明

頼朝の死因にはさまざまな説があります。史料により記述が異なり、『吾妻鏡』では落馬、『猪隈関白記』では飲水の病、『保暦間記』では義経や安徳天皇の亡霊により病で倒れたとされています。飲水の病は水を欲しがる病ということから糖尿病と考えられていますが、これが直接の死因とは考えられないようです。また、頼朝の子・頼家や実朝が暗殺されていることから暗殺説もささやかれています。いずれにしても、頼朝の死が史料に登場したのは死後13年たってからで、死亡当時その死がまったく記述されなかったことは謎めいているといえるでしょう。

謎多き武家政治の創始者

鎌倉幕府を開き東国に武家政権を築いた頼朝。貴族中心の政治から、武士による武士のための政治を行うようになったことは、時代の大きな節目となりました。このような大きな功績を残した頼朝ですが、その割には評価が低かったり、『吾妻鏡』から死の前後の記録が消されていたりと、今なお謎が残されています。そんな部分もまた彼の魅力といえるかもしれませんね。

 

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