戦前編も佳境に差し掛かってきた大河ドラマ「いだてん」。日本の女子スポーツの歴史も垣間見えてきました。ナチスドイツの政権下にあった1936(昭和11) 年のベルリンオリンピックで、日本初の女子金メダリストとなったのが水泳の前畑秀子(まえはた・ひでこ)です。「いだてん」では上白石萌歌さんが体重を7キロ増やして役作りをしていることでも話題になっている彼女の生涯と、水泳界に残した功績に迫ります。
川で泳ぐことで鍛えられた身体の弱い少女
前畑秀子は1914(大正3)年に和歌山県伊都郡橋本町(現在の橋本市)に生を受けました。家は豆腐屋を営んでいましたが、貧しい暮らしだったといいます。そして秀子は体が弱い子どもでした。そんな彼女を鍛えるため、家族や兄弟は近くの「妻の浦」に秀子を連れてゆき、自分たちの背に乗せて水に親しませました。そうするうちに、やがて秀子は自分の力で泳げるようになりました。
秀子が小学校3年生の時、小学校に水泳部が作られることになりました。いつのまにか圧倒的な実力を身につけていた秀子は4年生以下でたったひとりだけ1,000メートルも泳ぎ、入部資格を得ました。しかし、水泳部を新設するとはいっても小学校にはプールがなかったのです。そこで、秀子たちは近所にあった紀の川を天然のプールに見立てて練習を行っていました。木の板で飛び込み台をつくり、縄でコースロープを作る……。そんなプールとも呼べないようなプールで先生も子どもたちも一生懸命に練習を繰り返しました。
練習のなかで秀子が得意としたのが平泳ぎでした。小さいころから水に慣れていたせいもあってか、驚くほど上達が早く、5年生のとき大阪で開催された学童水泳大会に出場すると、50メートル平泳ぎの学童新記録を更新しました。秀子の努力に加え、子どもたちと先生による手作りの25メートルのプールがこの記録を作ったといえるでしょう。
1927(昭和2)年、秀子は中学校に進学しますが、水泳は変わらず続けました。そして1年生の時にすでに100m平泳ぎで1分38秒の日本女子新記録を打ち立てたのです。さらに翌年、中学2年生で100メートル平泳ぎ1分33秒2という記録を出し、自身の日本記録を大きく更新したのでした。さらに翌年にはカナダ、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなどが参加し、ハワイで行われた汎太平洋女子オリンピック大会の選抜選手として出場。秀子はなんと100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎで2位という結果を残し、その存在と名前を世界に知らしめたのでした。
支援者の登場がオリンピックにつながった
水泳で優秀な成績を残したとはいえ、前畑家が貧しいことにかわりはありませんでした。そのため秀子は卒業後、家業の豆腐屋を手伝うことが決まっていました。しかし、世界に名をとどろかせる水泳選手に育ったのにもったいないと、水泳関係者たちは家族に掛け合います。彼らの尽力が実り、秀子は名古屋にある椙山女学校(現・椙山女学園)に編入して水流を続けることができることに。学園長の椙山正弌(すぎやま・まさかず)は秀子に寮を用意し、さらには学園に日本で始めての室内プールを新たに作って全面的に支援したのでした。こうして水泳に没頭することができ順風満帆かと思われた秀子でしたが、1931(昭和6)年の1月には母・光枝を48歳で、6月には父・福太郎を51歳でともに脳溢血で亡くすという不幸もありました。
それでも秀子は泳ぎ続けました。悲しみの淵にありながらそれまで以上の練習を重ね、ますます実力をつけてゆきました。そして、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピック選手選考会で、18歳・女学校3年生の秀子は、200メートル平泳ぎで自身の日本記録タイの3分12秒4で1着になり、日本代表に選ばれました。ロサンゼルスオリンピック本番、順調に決勝に進んだ秀子は8人中2位で銀メダルを獲得。1位のオーストラリアのデニス選手とはたった0.1秒差でしたが、全力を出し尽くしたことで秀子は満足し、日本記録を6秒も縮められたということに喜びを感じていました。
しかし、周囲の人々はそのようには考えていませんでした。帰国した秀子を待っていたのは当時の東京市長の永田秀次郎による「なぜ金メダルを取ってくれなかったのか。日本の女子でメインポールに日の丸を揚げられるのはあなたしかいないのに」という言葉でした。学園へも「10分の1秒差で負けたことがくやしくてなりません」「(次回開催地の)ベルリンでがんばってください」という手紙がたくさん届きました。それらを見聞きしたことで、喜びの中にあった秀子は一転して苦しい思いを抱くようになりました。
「前畑ガンバレ!」は昭和の名フレーズに
秀子は水泳を続けてこられたことや、オリンピック出場がかなったことでじゅうぶん満足していましたし、家庭の事情や苦しい練習のことを考えて水泳を続けるべきか悩みました。しかし「最後までやり遂げなさい」という母の言葉を思い出して、次のベルリンオリンピックを目指そうと決意します。そんな秀子を支えたのが学園長の椙山で、卒業後も秀子は椙山学園のプールで練習を続けることができました。そこにはそれまでの楽しさとは異なる、悲壮な決意もありました。練習は「泳いでいながらプールの中で汗が流れるのがわかった」とのちに述懐するほどの激しさ。その練習量は毎日朝・昼・晩で2万メートルに及んだといいます。しかしその甲斐あって1935(昭和10)年には200メートル平泳ぎで3分3秒6の世界記録を樹立、ベルリンオリンピックにも順当に代表に選ばれました。しかし、ドイツに向かう船内で秀子はこう記したのでした「もし、金メダルが取れなかったら帰りの船から身を投じよう」。
1936(昭和11)年8月11日。ベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎの決勝に前畑秀子は挑みました。このオリンピックは、ラジオ実況中継が初めて行われことでも知られます。秀子は地元ドイツ代表のマルタ・ゲネンゲルとわずか0.6秒差というデッドヒートの末に勝利し、ついに金メダルをその手にしたのです。NHKの河西三省(かさい・さんせい)アナウンサーは「前畑ガンバレ!ガンバレ!」と23回唱え、ついに秀子が1位でゴールした瞬間には「勝った!勝った!前畑勝った!」を12回も連呼しました。そしてその声を聴いていた日本国中がオリンピックでの日本女子初の金メダルの歓喜に沸きました。「前畑ガンバレ」――多くの国民が聞いたそのフレーズが、いまでも前畑秀子の代名詞となって歴史に残っているのです。なお、この大会では椙山学園の後輩・小島一枝も入賞を果たしています。
ベルリンから帰国後に引退を宣言した秀子は、翌1937(昭和12)年に名古屋大学の医師である兵藤正彦と結婚し、以後は兵藤姓を名乗ります。1938(昭和13)年は秀子の功績を称え、椙山学園に新しく前畑・小島記念プールが竣工しています。
水泳教育の普及に捧げた後半生
現役を退いた後の秀子は、椙山女学園の職員として後進の指導にあたりました。また「ママさん水泳教室」を開催、水泳の普及にも力を入れました。還暦を過ぎてからも名古屋市を中心に「母親教室」「幼児教室」「子ども教室」「スイミングクラブ」を開いています。貧しい中で、多くの人々に支えられて努力をし、日本初の女子金メダリストとなった秀子から世間への恩返しだったのかもしれません。指導者としても秀子は活躍し、「前畑秀子」だけではなく「兵藤秀子」としての名前もよく知られているのはそのためでしょう。
金メダルを獲得したベルリンオリンピックから40年ほどたった1977(昭和52)年、運命の再会がありました。その相手はマルタ・ゲネンゲル。ベルリンを訪れた秀子は、かつて金メダルを争ったライバルといっしょに50メートルを泳ぎました。そして抱き合い、秀子はマルタの家に泊まったそうです。2人の胸中にどんな思いが去来していたのかは水のみが知るばかりですが、スピードではなくゆるやかな水泳への気持ちが交錯し、喜びにみちていたのではないでしょうか。
1983(昭和58)年、69歳の秀子は両親と同じ脳溢血で倒れましたが、リハビリにより再びプールに戻ることができました。その後の1987(昭和62)年には勲三等瑞宝章受章、1988(昭和63)に毎日スポーツ賞受賞とさまざまな栄誉を得て、ついに1990(平成2年)には女子スポーツ選手としてはじめて国の文化功労者に選ばれました。女子の水泳をリードし続けてきた功績が認められたのです。
兵藤秀子は1995(平成7)年2月24日、急性腎不全のため80歳で亡くなりました。水の中に生きた生涯でした。手作りのプールから始まった水泳人生でしたが、海のように広い水のなかを泳いできた人生だったのではないでしょうか。
生き続ける前畑秀子
残念ながら、秀子が獲得した金メダルは戦火の中で紛失し、現存していません。それでも母校の掲山女学園中学校・高等学校には秀子と小島一枝の銅像があり、ベルリンオリンピック時の葉冠に由来する「オリンピック・オーク」の木が植えられています。また、現在でも日本選手権水泳競技大会の競泳女子200m平泳ぎ優勝者には「前畑秀子杯」が贈与されたり、愛知県の選手権水泳競技大会では男女の200m平泳ぎ優勝者に「前畑秀子杯」が贈られたりするなど、秀子の名前は水泳界に燦然と輝いているのです。
2012(平成24)年に日本水泳連盟は「ドリームプロジェクト2020」を発表、2020(令和2)年に向け「国際競技力の向上」「水泳競技の普及と発展」「スポーツによる社会貢献」の3つの構想を中心として「日本水泳連盟の価値向上」を図ることを目標に掲げて活動を続けてきました。また、子どもの「スイミング」は、長い間人気の習い事のランキング上位であり続けています。これらの背景にパイオニアとしての前畑秀子の功績があることは間違いありません。現在の水泳界は競技人口も増え、記録も日々伸び続けています。しかし、前畑秀子が日本の、ひいては世界の水泳界に残した功績は、色あせることなく燦然と輝き続けることでしょう。
<参考サイト>
大河ドラマ「いだてん」
前畑秀子生誕100年記念事業(和歌山県橋本市)
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