中国を統一し、中国初の皇帝として君臨した始皇帝。戦国の六雄を倒して秦帝国を成立させた彼は、皇帝支配体制を創立した人物としても知られています。歴史的に重要な人物なため作品のモチーフになることも多い始皇帝ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、始皇帝のうまれから即位まで、秦王政による親政と中国統一、始皇帝の政策と功績、崩御とその後などについてご紹介します。
うまれから即位まで
始皇帝が即位するまでには紆余曲折ありました。始皇帝はどのような経緯で王位を継承したのでしょうか?
人質の子として成長
始皇帝の父・異人は、秦の昭襄王の太子・安国君(後の孝文王)の子としてうまれました。しかし、安国君には20人以上の子があったため、異人は趙の人質として生きていきます。これに目を付けた大商人・呂不韋は、安国君の継室ながら子がいなかった華陽夫人に近づき、異人を華陽夫人の養子にするよう画策。その後、安国君の跡継ぎに指名された異人は、華陽夫人が楚の公女だったことから子楚と改名します。
子楚は呂不韋の妾で趙の豪族の娘だった趙姫を気に入り、2人のあいだに嬴政(えいせい、のちの始皇帝)が誕生しました。なお、嬴政の父親は呂不韋という説もありますが、真実は定かではありません。
13歳で王位を継承する
昭襄王が没すると、安国君が孝文王として即位し、呂不韋の工作どおり子楚が太子になります。しかし、孝文王が在位からわずか3日で亡くなったため、子楚が荘襄王として即位し呂不韋は丞相(首相に相当)に就任しました。
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いで国を強化しましたが、在位3年で荘襄王が死去。これにより13歳の嬴政が王位を継承し、秦の第31代君主・秦王政となります。呂不韋は相国(丞相の上に位置する職)となり秦の政治を執行しましたが、趙姫との関係などが露呈したことから失脚。秦王政の怒りを知った呂不韋は、流刑地に行っても死ぬことを悟り服毒自殺しました。
秦王政による親政と中国統一
その後、秦王政は秦の領土を拡大し中国を統一します。そして、中国初の「皇帝」が誕生したのです。
統一戦争で領土を拡大
呂不韋らの勢力を排除した秦王政は、親政を開始しました。当時の中国では、燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚が強国として「戦国七雄」とされていましたが、秦王政は李斯(りし)らを起用し、戦国七雄の6国を滅ぼして天下統一する策略を立てます。先代・荘襄王の治世にすでに領土拡張を遂げていた秦は、近くの韓・趙を滅ぼしたのち、小国だった燕に侵攻。武力では太刀打ちできなかった燕は秦王政の暗殺を企て刺客・荊軻(けいか)を放ちますが、秦王政は何とか一命をとりとめ、燕に総攻撃を仕掛けました。次いで魏・楚・斉も滅亡させ、ついに中国統一を果たします。
中国初の「皇帝」となる
統一権力としての秦王朝を樹立した秦王政には、諸侯が名乗っていた「王」に代わる尊称が求められました。そこで秦王政は、秦帝国の建設をめざし、新たに世襲の帝位である「皇帝」の称号を考案。それと同時に従来の諡(おくりな)の制度をやめ、自らは「始皇帝」と称するようになります。後継者は「二世皇帝」「三世皇帝」とすることをあらかじめ定め、「制」「詔」「朕」などの皇帝専用語を採用しました。
始皇帝の政策と功績
始皇帝は法治国家の整備を行い、独裁権力を打ち立てます。その政策と功績はどのようなものだったのでしょうか?
郡県制の施行
始皇帝は従来の封建制を廃止して中央集権体制を確立し、郡県制を中国全土に施行しました。全国を36の郡(のちに48)にわけ、さらに段階的に「県」「郷」「里」という行政単位に区分。これにより諸国の関係は刷新され、伝統的な地域名も無くなります。また、人物登用も家柄ではなく能力に基づいて考慮されるようになりました。
度量衡、通貨、文字などの統一
経済においては、度量衡(単位)、通貨、記数法などを統一し、標準を定めて一体化を図ります。さらに重要だったのは漢字書体の統一です。皇帝の使用する「篆書体(てんしょたい)」を公式的な書体として秦国内で一本化し、征服したすべての地域に適用。中国全土における通信網を確立するため、各地固有の書体は廃止しました。
宮殿・陵墓の造営と土木事業
始皇帝は土木事情にも力を注いでいます。地方に残る財力と武力を削ぐため、各地の富豪12万戸を首都・咸陽(かんよう)に強制移住させ、諸国の武器を集めて溶かしました。咸陽城に美女らが集められ、宮殿は増築を繰り返したといいます。また、皇帝の居所・阿房宮や自身の陵墓「始皇帝陵(驪山)」の建設にも着手。さらに、南越出兵のための運河建設、北西の遊牧民対策の巨大な防衛壁も建設しました。この防衛壁は現在の万里の長城の前身にあたります。
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)
紀元前213年、博士・淳于越(じゅんうえつ)が古代を手本に封建制に戻すよう建議したのに対し、丞相・李斯は昔の先例によって今の政治を批判するのは禁止するよう上奏しました。始皇帝は李斯の建言を受け入れ、『詩経』『書経』などを禁書とし、すべて焼き捨てることを命じます。また、始皇帝の政治に批判的だった学者460人あまりを検挙し生き埋め(=坑儒)にしました。この焚書令による文化的損失は大きかったといわれています。
始皇帝の死とその後
秦帝国を作り上げた始皇帝でしたが、やがて最期を迎えます。始皇帝の死後、秦帝国はどうなったのでしょうか?
原因は水銀?天下巡遊中の死
始皇帝は中国を統一した翌年から天下巡遊を始めましたが、第4回巡遊の際に病気となり死去しました。このとき長子・扶蘇(ふそ)に向けた「咸陽に戻って葬儀を主宰せよ」という遺詔を宦官・趙高に託しています。生前の始皇帝は不老不死の薬を探すよう命令していたこともあり、日本を不老不死の国「蓬莱」だと信じて使者を派遣し、仙薬を探させたというエピソードも残されているようです。一説には、不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたともいわれますが、死因は水銀中毒ではなく毒殺の可能性もあると考えられています。
皇位継承と秦の滅亡
始皇帝の死を知る李斯、趙高、始皇帝の末子・胡亥(こがい)ら数名は、始皇帝の死が混乱を招くことを恐れ、秘匿したまま咸陽に帰還しました。始皇帝は扶蘇を後継者に指名していましたが、李斯らは遺詔を握りつぶして胡亥を二世皇帝に仕立てあげます。そして新たに死を賜る詔を偽造し、この書を受けた扶蘇は自決しました。
こうして胡亥が二世皇帝となりますが、その直後から秦の土木工事などで苦しんでいた農民らが蜂起し反乱が勃発。また各地の豪族たちの離反も続きます。実権を握ろうとする趙高により李斯と二世皇帝は死に追い込まれ、胡亥の兄・子嬰(始皇帝の弟という説もあり)が秦王に即位しますが、子嬰は趙高の一族を皆殺しにしました。
その後、のちに前漢の初代皇帝となる劉邦が咸陽に侵攻し、子嬰は降伏します。こうして紀元前207年に、秦帝国はわずか15年で幕を閉じました。
後世でさまざまな作品のモチーフに
始皇帝は、後世の映画・小説・ゲーム・漫画などのモチーフにもなっています。史実と異なる性格で描かれることも多く、作品によって評価はさまざまなようです。日本では、2006年から連載中の原泰久による漫画『キングダム』で中華統一を目指す聡明な王として描かれています。この作品は2012年6月からテレビアニメ化、2019年には実写映画化もされ、今なお人気を博しています。
その後の皇帝政治の基礎となった
幼少期は人質の子として成長したものの、10代で王位を継承し、中国初の皇帝として君臨した始皇帝。彼は郡県制の施行や度量衡の統一などさまざまな功績を残しました。一方、書物を焼き儒者を穴埋めにして殺すという残虐行為から暴君ともいわれています。いずれにしても、彼の支配した秦はその後の王朝に影響を与え、皇帝政治の基礎となりました。
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