【最後の源氏将軍:源実朝】百人一首の歌人として名を遺した男の生涯

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【最後の源氏将軍:源実朝】百人一首の歌人として名を遺した男の生涯

鎌倉幕府は源頼朝によって開かれましたが、源氏による支配は3代までしか続きませんでした。3代目にして源氏最後の将軍となったのが、頼朝の子・源実朝です。兄の頼家が追放され、わずか11歳で征夷大将軍に就任した実朝ですが、その人生は順風満帆とはいえませんでした。実朝の一生とはどのようなものだったのでしょうか?

今回は、実朝のうまれから将軍就任まで、実権を奪われてからの流れと最期、実朝と和歌の関わりなどについてご紹介します。

うまれから将軍就任まで

兄の頼家は待望の跡継ぎとして誕生しましたが、実朝はどうだったのでしょうか?うまれから将軍就任までを振り返ります。

源頼朝の嫡出の次男としてうまれる

実朝は、建久3年(1192)源頼朝と北条政子の次男として鎌倉で誕生しました。(政子の子としては第4子)幼名は千幡といい、乳母には政子の妹・阿波局が選ばれます。兄・頼家の乳母は比企氏一族が占めていたため、千幡のほうが政子に近かったといえるかもしれません。千幡は兄と同じく、うまれたときから多くの儀式で祝われました。頼朝は「みな意を一つにして将来を守護せよ」と言い、御家人たちに千幡を抱かせたといわれています。

家督継承し、征夷大将軍に補任

建久10年(1199)頼朝の死去により兄・頼家が将軍職を継承しますが、すぐに十三人の合議制がしかれ、建仁3年(1203)にはその地位をはく奪され伊豆修善寺に追われます。政子らは頼家が死去したという嘘の報告を行い、これを受けた朝廷は千幡に従五位下を授け、征夷大将軍に補任しました。千幡は元服後に実朝と名乗り、その後は父がかつて務めていた右兵衛佐に任命されます。その翌年、兄・頼家が北条氏の刺客による暗殺で死去。これは北条氏の陰謀と考えられています。

実権を奪われた実朝

鎌倉幕府3代将軍となった実朝。しかし、幼い将軍にかわって実権を握ったのは、十三人の合議制にも名を連ね、のちに政所別当、そして初代執権に就任した北条時政でした。

繰り返される策謀と粛正

北条氏による策謀は兄・頼家の暗殺後も続きます。元久2年(1205)頼朝以来の重臣・畠山重忠が討たれ、時政と後妻・牧の方による実朝暗殺計画が発覚。これにより時政は伊豆修善寺に追われ、時政の子で政子の弟である北条義時が執権職を継承しました。このような政争で蚊帳の外に置かれていた実朝は、実権のない将軍だったといえるでしょう。そのような背景もあってか、実朝は公家文化に親しみを覚え、和歌に傾倒していきました。

北条義時が侍所別当に

江戸後期~明治時代に刊行された伝記集『前賢故實』より、和田義盛像です。

建暦3年(1213)侍所別当・和田義盛の一族が、頼家の遺児を将軍にしようと謀反し義時に討たれます。これにより義時は侍所別当となり、将軍に忠義を尽くすという表向きの理由で対抗勢力を次々と滅ぼしていきました。こうして義時の権力はさらに拡大されていったのです。

実権のない実朝でしたが、唐船の建造については義時ら側近の意見をきかずに強行しました。宋の僧・陳和卿に会った際、実朝は「宋の医王寺の長老のうまれ変わりだ」と言われ、自分の夢の内容と同じだったことからその話を信じます。実朝は医王寺への訪問を考え唐船の建造を命じますが、結局渡宋は叶わず、夢は破れてしまいました。

早すぎる昇進とその最期

北条氏に実権を握られつつも、次々に昇進を遂げていった実朝。その最期はどのようなものだったのでしょうか?

源氏の終焉を見越して…

実朝の身を案じていた大江広元(毛利博物館所蔵)

建保6年(1218)実朝は権大納言に任ぜられ、1か月後にはかつて父が補任された右大将や、その上位である左大将への任官を求めました。さらに約1か月後、左近衛大将と左馬寮御監を兼任。のちに内大臣も兼ね、次には武士として初めての右大臣になります。このような華々しい昇進は、後鳥羽上皇が実朝を取り込もうとする目論見だったとも考えられ、それを危惧した大江広元は昇進の見合わせを進言しています。しかし実朝は、源氏の正統は自分で終わるだろうから家名を上げておきたい、と昇進を選んだといわれています。

このころ政子は、後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を実朝の後継として考えていました。結局この話は流れますが、実朝が自身を源氏最後の将軍だと感じていたのも当然かもしれません。

公暁に暗殺される

建保7年(1219)鶴岡八幡宮で昇進の拝賀が行われ、神拝を終えて退出する途中、実朝は暗殺されました。彼を殺害したのは、兄・頼家の子で実朝の甥にあたる公暁で、親の仇を討つという理由での犯行でした。公暁は実朝の次に源仲章を殺しましたが、これは義時と誤ったためだといわれています。当の義時は腹痛を理由にちょうど列を離れており、太刀持ちの役を仲章に譲ったために助かりました。『吾妻鏡』によれば、広元はこのような事態を予感し、拝賀の前に涙を流したそうです。この事件ののち公暁も討たれ、実朝のいう通りに源氏将軍家の血筋は途絶えました。

実朝と和歌の関わり

政治の実権を得られなかった実朝は、歌人として名を馳せました。実朝と和歌の関わりについてご紹介します。

小倉百人一首に選出される

実朝は和歌の大家である藤原定家に師事し、『万葉集』『古今集』『新古今集』などから歌を学びました。本歌取りを使った独自の歌風を身につけた彼は、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選出されています。定家の所伝本の奥書によれば、22歳ごろまでの663首が、歌集『金槐和歌集(鎌倉右大臣家集)』に纏められているようです。

現在でも親しまれている小倉百人一首では、『世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも(通釈:世の中はいつまでも変わらないでほしいものだ。渚を漕ぐ漁師の小舟が、綱手でひかれてゆく様子は何とも切ない)』(小倉百人一首93首目)という歌を残しています。

和歌の才覚があった東重胤を寵愛

実朝は歌人としても優れていた東重胤(とうしげたね)を側近として寵愛していました。歌会で近仕していた重胤が下総国に帰ったときのこと、実朝はなかなか戻らない重胤に和歌を送って帰国を促しますが、重胤が遅参したため蟄居を命じます。これを悲しんだ重胤は、義時のもとに出向いて蟄居を嘆くと、義時とともに実朝の邸宅に赴いて歌を献じました。実朝はその歌を大層気に入り、3回吟じたあと重胤を許したといわれています。

源氏将軍が断絶した

実朝の死により、源氏将軍や河内源氏棟梁の血筋は断絶しました。権力闘争のなかで和歌に傾倒していった実朝は、御家人たちに失望されたといわれています。しかし、実朝が和歌を愛したのは、幕府の実権を握ることが叶わず、蚊帳の外となっていたことも理由の一つかもしれません。

頼朝、頼家につづき、非業の死を遂げた実朝。実権を奪われた彼が一族からの恨みで暗殺されたのは皮肉といえるでしょう。実朝死後も鎌倉幕府の歴史は続いていきますが、源氏の支配はここで失われました。

 

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