【斎藤道三の孫:斎藤龍興】再興を図り織田信長に対抗し続けた戦国武将

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【斎藤道三の孫:斎藤龍興】再興を図り織田信長に対抗し続けた戦国武将

美濃のマムシと呼ばれ、父とともに国盗りを成功させた斎藤道三。その孫にあたるのが道三流斎藤家3代目の斎藤龍興です。龍興は若くして家督を継承しましたが、わずか19歳で大名から転落するという波乱の人生を送っています。家の再興を図って最期まで戦い抜いた龍興とは、どのような人物だったのでしょうか?

今回は、龍興の生まれから家督継承までの経緯、美濃国主としての攻防戦、復帰と再興を目指しての戦い、龍興に関する逸話などについてご紹介します。

道三流斎藤家3代目に

龍興の出自はどのようなものだったのか、うまれから家督継承までについて振り返ります。

斎藤義龍の子として生まれる

龍興の父・斎藤義龍の像です。(長浜城歴史博物館所蔵)

龍興は、天文17年(1548)斎藤義龍の庶子(正室ではない女性の子)として誕生しました。一説には正室・近江の方(近江局)の子ともいわれており、その場合は嫡男ということになりますが、真実は定かではありません。

義龍の母・深芳野には、道三の側室となったときすでに懐妊していたという逸話があり、義龍の実父は道三ではなく美濃守護だった土岐頼芸であるとの説があります。こちらも真実はわかりませんが、当時の史料には義龍の父は道三だと認めているものもあるようです。義龍と道三が親子なら、龍興は道三の実の孫にあたるといえるでしょう。

なお、義龍が道三に謀反した際、義龍は母方の一色姓を称しており、龍興も一色姓を用いていたようです。

美濃斎藤氏の家督継承

永禄4年(1561)父・義龍の死により、龍興は14歳で家督を継承しました。若くして美濃斎藤氏を背負った龍興は、家中でも評判の悪かった斎藤飛騨守を重用するようになります。斎藤氏の家臣には、のちに豊臣秀吉の参謀として、黒田官兵衛とともに「両兵衛」として活躍する竹中半兵衛がいました。半兵衛は義龍時代から仕える家臣でしたが、飛騨守は日頃から半兵衛を侮辱しており、龍興も真面目な半兵衛の意見は聞き入れなかったようです。このような態度から、龍興はほかの家臣らの信望を得られませんでした。

美濃国主としての攻防戦

父の跡を継いで美濃国主となった龍興ですが、その活躍はどのようなものだったのでしょうか?

織田信長と合戦を繰り返す

美濃国主となった龍興は、父の代から続く尾張・織田信長の侵攻に対抗することになります。北近江・浅井氏との同盟を考えますが、信長の妹・お市の方が浅井長政に嫁いだことから、信長と長政が同盟を締結。そのため美濃は逆に侵攻を受けます。このときは義龍時代から同盟関係にあった南近江・六角義賢が浅井領を攻撃したため、長政が美濃攻めを中止し、龍興は難を逃れました。永禄6年(1563)再び信長が侵攻した新加納の戦いでは、半兵衛の活躍などもあり、織田軍を打ち破っています。

家臣の流出が相次ぎ…

斎藤家では道三の代から明智光秀といった名だたる家臣が流出しており、敵方の織田家に下る者もいました。龍興は飛騨守ら一部側近を寵愛して半兵衛や西美濃三人衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就)を政務から遠ざけていたため、永禄7年(1564)半兵衛と守就による、飛騨守殺害と稲葉山城乗っ取り事件が勃発します。居城を占拠された龍興は鵜飼山城や祐向山城に逃走。この事件は半兵衛らが主君を諌めるためにわざと行ったともいわれています。

稲葉山城の戦いで敗走

信長の手に渡った稲葉山城は、岐阜城と改められました。

約半年の占拠ののち、稲葉山城は龍興に返還されました。こうして美濃領主として復帰した龍興でしたが、この事件により斎藤氏の衰退は表面化していきます。そして永禄10年(1567)稲葉山城の戦いが勃発。西美濃三人衆らが龍興を裏切って内通したことから、稲葉山城は信長によって落城されます。龍興は織田軍が追ってくるなか、長良川を下り伊勢国の長島へと亡命。20歳だった龍興は大名の地位を失いました。

復帰と再興を目指して

美濃を追われた龍興は、美濃の奪取・復帰と斎藤家の再興を目指し、信長と戦い続けることになります。

織田家への抵抗を継続

長島に亡命した龍興は、その後も信長に対する抵抗を続けました。永禄12年(1569)三好三人衆と結託し、信長が擁立した第15代将軍・足利義昭の殺害を画策して敗走(本圀寺の変)。元亀元年(1570)には斎藤家3代に仕えた重臣・長井道利(通称:隼人佐)とともに長島一向一揆に参加し、同年8月には野田城・福島城の戦いで石山本願寺の顕如らとともに三好三人衆の籠城を支援しました。信長が朝倉義景・浅井長政に後背をつかれて退却するまで持ちこたえたこの戦いは、その後10年にわたる石山合戦の初戦ともいえるものでした。

刀禰坂の戦いで死亡

龍興を庇護した、朝倉義景の像です。(心月寺所蔵)

その後、三好三人衆の死去や行方不明により畿内に居場所を失った龍興は、縁戚関係にあった越前の義景に庇護されます。ここでは客将として扱われ、待遇は悪くなかったようです。

そんな中、天正元年(1573)義景と信長が激突し刀禰坂の戦い(一乗谷城の戦い)が勃発。朝倉軍として参加した龍興は、この戦いに敗れ、刀禰坂で追撃を受け戦死しました。一説では、美濃国主時代の重臣だった氏家直元の嫡男・氏家直昌が斬ったともいわれています。

龍興に関する逸話

信長に対抗し続け、この世を去った龍興。そんな彼に関する逸話をご紹介します。

生存説が複数存在する

龍興にはいくつか生存説が存在しています。富山市・興国寺の伝説では、永禄12年(1569)に興国寺に隠れ、九右ェ門と改名。一族を励ましながら近辺の開拓にあたり、江戸時代になると子供に家督を譲り出家します。この興国寺には、龍興の鎧鞍と木造阿弥陀如来立像が伝わるそうです。この説では寛永9年(1632)没の享年87歳となり、かなり長生きだったことになります。

また、刀禰坂の戦いで敗走し本願寺と合流したという伝承もあり、この説では、本願寺勢力と再起を図ろうとするも現在の岐阜県羽島市の寺で病死したとされています。

本当は有能だった?

道三や義龍とは反対に凡庸や愚鈍という評価がある龍興ですが、ルイス・フロイスの『日本史』では、有能な人物だと評価されています。龍興はキリスト教の儀式や儀礼を説かれた際、その内容を書き留め、次に教会にやってきたときには一言一句違わず流暢に反復したといいます。これには教会の信者達も驚愕したのだとか。また、教義について質問する一幕もあったようです。

龍興は暗君ともいわれますが、家督を継承してから6年間、信長のたび重なる侵攻に耐え抜いたことも事実です。信長の西国支配を遅らせたことや、最期まで再興を諦めず抵抗した粘り強さなどは、評価できるといえるでしょう。

戦国大名・斎藤氏が滅亡した

若くして家督を継承し、信長との攻防戦に一生を費やした龍興。彼の死により戦国大名・斎藤氏は滅亡し、道三が父とともに築いた地位は失われました。彼らが治めた美濃は信長に支配されることになります。織田家に降った家臣がいることを考えると、家臣の流出を防げていたら、歴史は変わっていたかもしれません。偉大な祖父をもった龍興は、戦国大名・斎藤氏の最後の当主として、26歳の短い人生を終えました。

 

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