浮世絵は江戸時代に成立した絵画のジャンルで、日本の伝統文化の一つとしても根付いています。現在でも浮世絵を題材とした展覧会などが開催されているので、興味があるという人も多いでしょう。
江戸時代の浮世絵師といえば東洲斎写楽が有名ですが、その少し後に民衆のヒーローと化したのが歌川国芳(うたがわくによし)です。国芳はどのような絵師だったのでしょうか?
今回は、国芳のうまれから下積み時代、人気絵師としての活躍とその後の挑戦、また国芳の人物像などについてご紹介します。
不遇だった下積み時代
人気浮世絵師の国芳も、かつては売れない時代を過ごしていました。そのころはどのような暮らしをしていたのでしょうか?
15歳で初代歌川豊国に入門する
国芳は、寛政9年(1798)江戸日本橋本銀町一丁目で誕生しました(諸説あり)。幼少期から絵を学んでいた彼は、12歳のころに描いた『鍾馗提剣図』がきっかけとなり、15歳で初代・歌川豊国に入門します。初作は文化11年(1814)ごろの『御無事忠臣蔵』の表紙と挿絵といわれ、その後は一枚絵の制作も始めました。
兄弟子・歌川国直を手伝い、画力を磨く
当時の国芳は月謝も払えない状況で、歌川派代表の兄弟子・歌川国直のもとに居候し、仕事を手伝いながら画力を磨いていました。役者絵や合巻の挿絵を手がけたのち、錦絵『平知盛亡霊図』や『大山石尊良弁滝之図』でようやく人気が出ましたが、豊国や兄弟子である歌川国貞の人気には勝てず、しばらくは不遇時代を過ごすことになります。
人気絵師の仲間入りを果たした国芳
なかなか芽が出なかった国芳ですが、ついに絵師としての人気に火がつきます。売れっ子絵師としての国芳の活躍はどのようなものだったのでしょうか?
「武者絵の国芳」として人気絵師に!
国芳に転機が訪れたのは文政10年(1827)のことでした。当時は中国の『水滸伝』が流行しており、版元の加賀屋が大判錦絵シリーズに国芳を起用したのです。このとき手掛けた『通俗水滸伝豪傑百八人』のシリーズは大好評で、国芳の出世作となりました。こうして彼は「武者絵の国芳」として人気絵師の仲間入りを果たしたのです。
傑作を生み出し多くの弟子を抱える
それ以降の国芳の活躍はめざましく、武者絵のほかにもさまざまな傑作を生み出しました。西洋の陰影表現を使った『東都名所』などの名所絵(風景画)をはじめとし、美人画や役者絵も手がけています。天保元年(1830)ごろには「朝桜楼」の号を使用し始め、狂画(戯画)、魚類画、風刺画といったジャンルの絵にも着手しました。
幕府の風刺画で民衆のヒーローと化す
国芳が45歳のとき、老中・水野忠邦による天保の改革が起こります。倹約・風俗粛正を行うこの改革では、国芳たちの人情本や艶本が絶版処分となり、浮世絵・役者絵・美人画も禁止になりました。
そこで国芳は、幕府の風刺画を描いて皮肉をぶつけます。これには江戸民衆も大喜びし、国芳の人気は最高潮に達します。幕府は国芳を呼び出したり罰金を課したりしましたが、それでも彼の勢いは止まりませんでした。
挑戦につぐ挑戦の果てに…
人気絶頂の国芳は、その後もさまざまなチャレンジを続けます。そして、絵師としての人生を全うしたのです。
枠にとらわれない新機軸をうみだす
幕府から度重なる弾圧を受けていた国芳でしたが、やがて忠邦が失脚。国芳はここぞとばかりに武者絵三枚続を描いて人々の度肝を抜きました。このとき国芳が世に送り出した『宮本武蔵と巨鯨』は、3枚にまたがる一つの大きな作品です。それまでの三枚続は連作であっても1枚ずつ独立していましたが、枠にとらわれない発想の国芳は新機軸を打ち出したのです。弘化から嘉永期にかけてうみだされた大判三枚続は、おおいに人々の心を掴みました。
西洋画技法の写実絵も描いたが…
西洋画のリアルな遠近法や陰影についても研究していた国芳は、56歳のとき西洋画の技法を使って新シリーズの制作を始めます。それは47人の志士がそろう忠臣蔵で、従来のものとは違い、実在人物としてのリアルな肖像画でした。しかし写実的な絵に慣れていない民衆には受け入れられず、すぐに打ち切りとなってしまいます。
病の中で制作し続けた
精力的に創作を続けた国芳ですが、安政3年(1856)ごろに病魔に侵され倒れてしまいます。それでも彼は制作を続けましたが、そのころには線が鈍くなり、人物描写も硬く、動感に乏しい作品が目立っていました。そして文久元年(1861)、65年の華々しい人生に幕を閉じたのです。
国芳はどんな人物だったか?
人気絵師として一世風靡した国芳ですが、一体どのような人物だったのでしょうか?人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。
センスにあふれたアイデアマンだった!
天保の改革では役者や遊女の錦絵は出版禁止になりましたが、国芳はそのような状況をうまく乗り切っています。『荷宝蔵壁のむだ書』のように壁の落書きを写したといったり、魚の顔を役者の顔にしたり、さまざまな便法で役者絵を描き続けたのです。国芳は持ち前のセンスを存分に発揮していたといえるでしょう。
無類の猫好きで猫の過去帳まであった!?
国芳は猫好きとしても知られており、猫を抱きながら作画していたと伝えられています。死んだ猫は回向院で葬られ、家の仏壇には死んだ猫の戒名が書かれた位牌も飾られていたのだとか。猫の過去帳まであったという国芳は、猫を擬人化した作品も多数手がけており、弟子にも猫の描写を勧めたそうです。国芳以降、猫だけでなくさまざまな動物が浮世絵に登場しましたが、これも国芳の猫好きが関係しているのかもしれません。
今なお愛される日本屈指の浮世絵師
日本の伝統文化である浮世絵を多数生み出した国芳。彼の絵は現在でも人気が高く、浮世絵展やそのほかの展覧会でも展示されることがあります。ほかの絵師とは一風変わったその独特な世界観は、一度見たら忘れられないでしょう。コミカルタッチな作品も多いので、ユニークな絵が好きな人なら、さらに楽しめるかもしれません。
この機会に、江戸民衆が熱狂した国芳の世界に触れてみてはいかがでしょうか?
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