【足利義満と北山文化】優美で華やかな文化が発展した理由とは?

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【足利義満と北山文化】優美で華やかな文化が発展した理由とは?

日本の歴史上にはさまざまな文化が登場します。そのなかでも華やかな文化として知られるのが、室町時代の「北山文化」でしょう。北山文化を代表するものの一つに、京都の金閣寺があります。あまりにも有名な建築物なので、一度は訪問したことがあるかもしれません。北山文化ではそれ以外にもさまざまなジャンルが発展しましたが、このような文化はなぜ成立したのでしょうか?

今回は、北山文化の概要、北山文化を代表するもの、その成立と背景などについてご紹介します。

北山文化とは?

室町時代には、今現在の生活に直接かかわるものがたくさん生まれました。北山文化の特徴とはどのようなものなのでしょうか?

北山文化の特徴

北山文化は、室町時代初期、3代将軍・足利義満のころに北山山荘(北山殿)を中心に展開された文化です。14世紀末~15世紀前半までを指し、8代将軍・足利義政のころに発展した東山文化に対してこの言葉が使われています。

従来の公家文化と新興の武家文化が融合されており、大陸文化の影響も受けていることが特徴です。

東山文化との違い

北山文化は優美で華やかで、東山文化は簡素で深みがあります。

この二つの文化の大きな違いは、「わび・さび」など禅宗の影響を強く受けた庶民的な東山文化に比べ、北山文化は公家文化の影響を強く受けている点だといえるでしょう。

北山文化を代表するもの

北山文化にはどのような代表作があるのでしょうか?ジャンル別にご紹介します。

建築:金閣寺(鹿苑寺)

京都市北区にある、臨済宗相国寺派の寺・金閣寺(鹿苑寺)

北山文化の代表といえば、なんといっても金閣寺です。お寺の正式名称は鹿苑寺ですが、舎利殿である『金閣』が特に有名なため、一般的に金閣寺と呼ばれています。14世紀末に足利義満が京都の北山に別荘として建てたものが、のちに禅宗寺院・鹿苑寺となりました。

1階は公家の住まいの特徴である寝殿造り、2階は武家住宅の建築様式である武家造り、3階は寺院建築の様式を取り入れた禅宗様式という3層になっており、公家、武家、禅宗の文化がミックスされています。金閣寺の建設には、現在の金額で約600億円がかかったそうです。

芸能:能・狂言

芸能の分野では、民間芸能の猿楽や田楽をもとに、観阿弥と世阿弥が能楽を大成しました。能の合間に披露される風刺のきいた短い喜劇は狂言として発展。また能の影響により能面も多く作られるようになります。彼らは神社の祭礼などで猿楽を披露していましたが、義満のバックアップにより幕府のお抱えとなりました。また、世阿弥は能の理論書となる『風姿花伝』を編纂したことでも知られています。

文学:五山文学

義満は中国・宋に倣い、京都と鎌倉に臨済宗の5つの寺院(五山)を設けました。京都五山は、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺で、鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺です。五山の僧たちは、幕府の保護を受けながら儒学の研究や漢文などの創作を行います。これらは五山文学と呼ばれ、禅の教義をはじめとして、詩文、日記、論説など広範囲にわたりました。代表的な詩文集には、義堂周信『空華集』、絶海中津『蕉堅稿』などがあります。

絵画:水墨画

如拙の『瓢鮎図』は国宝となっています。

五山の禅僧には中国僧や中国に留学していた者も多く、禅の精神的境地を具体化した水墨画などが日本に伝わりました。東福寺の僧・吉山明兆の『五百羅漢図』、相国寺の僧・如拙による『瓢鮎図(ひょうねんず)』、相国寺の僧・周文の『寒山拾得図』『水色巒光図(すいしょくらんこうず)』などが有名です。周文は幕府の御用絵師となっており、画聖と呼ばれる雪舟等楊にも奥義を伝えています。

宗教:禅宗・臨済宗の発展

北山文化では、幕府の保護により禅宗の臨済宗がさらに発展していきました。義満が保護した臨済宗・相国寺は、義満自身が開基となり、夢窓疎石が初代住職を務めています。

北山文化が成立した背景

華やかな北山文化が成立した背景には、義満の手腕が大きく関係していました。義満はどのように北山文化を発展させたのでしょうか?

武家と公家の最高位にあった義満

鹿苑寺所蔵の足利義満の像です。

義満は11歳の若さで将軍職を継承し、室町幕府の3代将軍に就任。成人したころには補佐なしで親政を行い、「花の御所」と呼ばれる邸宅を造営していました。義満は脆弱だった幕府の権力を向上させ、内大臣にまで出世します。さらに武士として初めて准三后に就任し、朝廷内で高い地位に就きました。

地方の守護勢力を削いで奉公衆という直轄軍を強化した義満は、さまざまな反乱を鎮圧していきます。そして元中9年/明徳3年(1392)には南朝・後亀山天皇から三種の神器を取り戻して南北朝を統一。応永元年(1395)には太政大臣に就任して、武家と公家の最高位に立つなど手腕を発揮していきました。

日明貿易(勘合貿易)で利益を得る

南北朝統一後、明への憧憬を抱いていた義満は、明との正式な国交を望みます。しかし明側は、南朝・懐良親王を正規の通交相手としたため、天皇の臣下としての幕府の交渉は成功しませんでした。そこで義満は太政大臣を辞任して出家し、天皇臣下ではない自由な立場として、ついに正式な国交を結ぶことに成功します。

義満は明からの要求に応えて倭寇(13~16世紀にかけて活動した海賊)を取り締まり、日明貿易を開始。明に対して貢ぎものを献上し、元寇以来途絶えていた貿易を再開させ、明の皇帝から「日本国王」と呼ばれるようになりました。この日明貿易は、明が発行した割符・勘合符を使用したため、勘合貿易とも呼ばれています。

室町幕府の全盛期を築く

幕府は義満が再開した日明貿易によって莫大な利益を得ました。これにより幕府の経済基盤が確立され、応永4年(1397)には北山殿(のちの金閣寺)が造営されます。応永6年(1399)以降、義満はこの北山殿に移り住み、本格的に活動の拠点としていきました。こうして公家文化と武家文化の融合である北山文化が発展し、義満は室町幕府の全盛期を築いたのです。

北山文化は義満のシンボルに

室町時代を代表する文化の一つである北山文化。華やかな文化がこれほどまでに発展したのは、義満が手腕を発揮し、日明貿易で大きな利益を得たからといえるでしょう。北山文化を代表する建築物である金閣寺は、義満の時代を代表するシンボルとして、現在でも中学や高校の修学旅行で訪問されることが多いようです。またユネスコの世界遺産にも登録されており、世界中の人に親しまれています。

 

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