幕末から明治維新の動乱期に、日本の歴史上の重要人物が多く登場するのは皆さんもご存じですよね。中でも政界および教育界で幕末から明治・大正まで長く活躍した大隈重信は出色で、後世に大きな影響を与えました。今回は、早稲田大学の創立者としても有名な大隈の名言や人物像、偉人たちとの関係性についてご紹介します。
大隈重信の名言を紹介!
大隈重信は一流の政治家でしたが、教育者としても非凡な才能を発揮します。若者の啓発に努めた大隈の名言と、その意味について見ていきましょう。
学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である……
学問は脳、仕事は腕、
身を動かすは足である。
しかし、卑しくも大成を期せんには、
先ずこれらすべてを統(す)ぶる
意志の大いなる力がいる
これは勇気である。
大隈が当時の日本の青年に宛てた名言です。学問には知力が、仕事には技術が必要、そして足で活動する。加えて、大きな成功を成し遂げるには、これらの能力を統括する意志を持たなければならず、その意志の源泉になるのが勇気であると、大隈は述べています。大隈の人生を凝縮した言葉といっても過言でないかもしれません。
人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ
人間が生きるのは、社会の利益のために存在するということだ。
ただ生きてるのではつまらない。
こちらも大隈の生き方を代表する言葉ではないでしょうか。彼が早稲田大学をつくった目的は、日本の発展のためでした。国民に、自分のためだけに生きるのではなく、社会の利益のために生きることこそが人間の本分だと伝えたかったのでしょう。
諸君は必ず失敗する
諸君は必ず失敗する。
成功があるかもしれませぬけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。
大隈は明治14年(1881)に政府を追われます。さらにテロリストに襲われ、右足を失う事態に陥りました。落ち込んでも不思議でないような苦難に度々襲われながらも、教育や政治への情熱を失いませんでした。「諸君は必ず失敗する」から始まるこの言葉で、失敗しても落胆せず、乗り越えて成功をつかみ取れと、大隈は日本の若者を激励したのです。
大隈重信5訓
大隈重信5訓
1.物事を楽観的に見よ。
2.怒るな。冷静に物を見よ。
3.むさぼるな。
4.愚痴をこぼすな。
5.世の中の為に働け。
多くの困難に見舞われながら仕事を成し遂げた大隈の姿勢が、この「大隈重信5訓」に表れています。激動の時代を生き抜いた大隈には、現状に怒ったり、悲観したりしたくなるようなときもあったでしょう。そのような大隈だからこそ「1.物事を楽観的に見よ。2.怒るな。冷静に物を見よ。4.愚痴をこぼすな。」の言葉を残したのです。また早稲田大学創立の動機の一つに、当時の官僚が自分の利益のために行動していることを嘆く思いがありました。「3.むさぼるな。5.世の中の為に働け。」には、その気持ちも影響していると考えられます。大隈はそうした状況を変えるためにも、世のため力を尽くす若者を育てようとしました。
偉大なる大隈重信の経歴とは?
大隈重信はどのような経歴の人物なのでしょうか。江戸時代に生まれ、大正時代まで活躍した彼は、波乱万丈の人生を送りました。大隈の人生、経歴を振り返ります。
佐賀藩士として生まれる
大隈は現在の佐賀県である佐賀藩の砲術長の家系に生まれました。佐賀藩は西洋の技術を取り入れ近代化を進めた強藩で、「薩長土肥」の「肥」として明治維新に貢献した藩として知られています。大隈も、佐賀藩で伝統的な「葉隠(はがくれ)」や蘭学を学びました。後に藩内抗争を嫌った大隈は脱藩し、同志とともに徳川慶喜に大政奉還の説得にいくなど、国のために精力的に活動します。
明治政府で要職を歴任する
明治政府には、財政や外交に長けた人材は多くありませんでした。その二つを得意とする大隈は、明治初期から大蔵卿や外務大臣を歴任します。明治初期の最も有力な政治家である大久保利通も、大隈の能力を大いに頼りました。維新で大きな役割を果たした薩摩・長州の人物の多くが栄誉職についた中で、大隈は自らの能力で明治政府に貢献したのです。
早稲田大学の創設者
政治家として活躍していた大隈は、日本で教育の基礎が整っていないこと、日本の独立を守るためには学問が重要であることを切実に考え、東京専門学校(後の早稲田大学)を設立します。早稲田大学はその後、多くの人材を輩出し、日本で最も有名な大学の一つとなりました。
外務大臣時に襲撃に遭う
大隈は幕末以来、日本の懸念だった不平等条約の改正のため、外務大臣に登用されます。彼は当時の日本の国力から、一気に完全な平等条約を締結するのは難しいと考え、徐々に不平等な部分を排していこうとしました。大隈の新条約案は以前よりも進歩したものでしたが、残された不平等な部分に反発するテロリストにより、明治22年(1889)に爆弾による襲撃を受けます。この襲撃事件は「大隈重信遭難事件」と呼ばれ、彼は右足を切断する手術を受けるとともに辞職しました。
2度の内閣総理大臣就任
大隈は明治と大正に1度ずつ内閣総理大臣に就任しました。薩摩・長州以外の出身者で総理大臣となった初の人物です。78歳まで総理を務め、現在までの歴代総理で最高齢の記録になっています。
大隈重信と偉人たちの関係
大隈重信が活躍した時代の日本には、多くの歴史的な偉人が活動していました。大隈は彼らとどのような関係を持っていたのでしょうか。
伊藤博文とはライバルだった
初代内閣総理大臣となった伊藤博文と大隈はもともと仲が良く、明治初期には他の政治家たちと築地の大隈邸で政治談義を行い、「築地梁山泊」と呼ばれるほどでした。しかし、開拓使官有物払い下げ事件で対立してからは、さまざまなことで軋轢が生じます。それでも、伊藤が暗殺されたとき、大隈は涙を流して悲しんだそうです。
西郷隆盛を嫌っていた
明治維新最大の立役者の西郷隆盛とは、大隈は反りが合いませんでした。西郷は武士らしく振る舞うことを好み、明治の新政府で財政や外交を担っている大隈を俗吏程度にしか考えていなかったのです。また西郷は薩摩出身者の多くのように、鋭い才を表に出さない性格でした。自身の才能で明治政府の大官となった大隈には、西郷の人柄は不可解だったようです。西南戦争を起こして日本を危機に陥れた点でも、大隈は西郷を良く思っていませんでした。
新島襄と親しかった
大隈は、同志社の設立者である新島襄と親しい関係にありました。大隈が新島に同志社設立の資金援助を約束したことが、記録に残っています。大隈は京都で同志社に立ち寄り、学生を前に演説もしました。大隈と新島の友情から始まった、早稲田大学と同志社大学の交流は現在も続いています。
福沢諭吉と犬猿の仲だったが意気投合!
政治家嫌いで知られた福沢諭吉は、大隈のことも生意気な政治家と呼び、嫌っていました。大隈も福沢のことをお高くとまった学者とみており、犬猿の仲でした。しかし、ある酒席で二人は意気投合し、福沢から学校設立を勧められた大隈が早稲田大学創立を構想するほど、影響を与え合う仲になります。二人の間でお金の貸し借りがあったという記録もあり、早稲田大学の開校式でも福沢の姿が見られました。
数々の名言と功績
大隈重信の政治、教育への情熱は非常に強く、政界では大蔵卿、外務大臣などの後、内閣総理大臣を2度務め上げ、教育界では早稲田大学を設立したほどです。襲撃事件後、右足を失った後も精力的に活躍し続けた大隈ですが、大正11年(1922)胆石症で死去します。彼の葬儀は日比谷公園で国民葬として執り行われ、30万人もの市民が集まりました。そんな大隈の名言や多くの偉人たちとの逸話は、今後も語り継がれていくことでしょう。
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