豊臣秀吉の実子として後を継いだ若きプリンス・秀頼。
秀吉が晩年にもうけた一粒種でしたが、その人生の幕はあまりにも早く下ろされることとなります。一方で、秀頼の出生には常に疑惑がつきまとっています。
それは、父親は秀吉ではない別の男性では?という話でした・・・。
淀殿(茶々)だけが続けて秀吉の子を生んだ不思議
秀頼の母は、近江の戦国大名・浅井長政の娘である淀殿(茶々)。
織田信長の姪にも当たる、名門の姫君です。家を秀吉によって滅ぼされた後、30以上も歳の離れた、しかも両親を死に追いやった秀吉本人の側室となったのです。
しかし淀殿は秀吉の寵愛を受け、2人の男児を産みました。1人は早逝しますが、2人目の子が秀頼です。
待望の後継ぎの誕生に秀吉は狂喜しました。
ですが、秀吉はすでに50過ぎ、当時なら老年の域に入っています。それまでにも多くの側室を持ちながら、子供に恵まれなかったにも関わらず、なぜ淀殿との間にだけ続けて2人の子が生まれたのでしょう。
秀吉が、子供ができない体だったのかもしれないという推測もできます。事実、他の側室たちも別の男性との間には子を産んでいます。となれば、淀殿が産んだ子は・・・?ということになりますね。
父親説最有力候補は淀殿の傍に控える男・大野治長?
そこで名前が挙がるのが、淀殿の乳母である大蔵卿局の息子・大野治長です。2人は同い年の乳兄妹の関係にありました。当然仲は良かったことでしょう。その治長こそが秀頼の父親だという説が、当時から囁かれていたのです。
真田増誉による諸大名や武士の逸話集「明良洪範」には、秀頼は秀吉の実子でなく、淀殿が治長と密通して生まれたと記されています。
他にも、奈良の興福寺の僧による日記「多聞院日記」や、朝鮮出兵時に捕虜となって日本に連行されてきた朝鮮人儒学者・姜沆の「看羊録」にも淀殿と治長の密通について記されているのです。
また、「萩藩閥閲録」という萩藩・毛利氏による古文書の集大成にまで、2人の密通の話が残されています。
長じた秀頼は、身長6尺5寸(197㎝)、体重43貫(161㎏)という偉丈夫・・・というか巨漢になりました。
ここにもまた、小男だった秀吉の面影はありません。もっとも淀殿は大柄だったそうですし、秀頼は食事もいいものを食べていたでしょうから、何とも言えませんが。
豊臣家滅亡、秀頼の最期は…
慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、主導権は徳川家康に移っていきます。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで豊臣側の西軍が家康に敗北すると、秀頼は65万石の一大名となってしまいました。
その後も家康からの圧迫は強まり、大坂の陣が勃発するのです。
冬の陣では和議が結ばれましたが、城の堀を埋め立てられ、やがて起こった夏の陣では豊臣方の軍勢は敗北を重ね壊滅状態となりました。そしてついに、大坂城本丸に敵の手が及んだのです。
天守閣は炎上し、秀頼と淀殿は治長ら側近と共に山里丸に逃げ込みます。治長は自身の切腹を条件に秀頼母子の助命を嘆願しましたが、家康には聞き入れられませんでした。
もはやこれまでと秀頼は自刃し、23歳の生涯を閉じました。淀殿と治長もまた自害し、炎と共に消えて行ったのです。
治長が秀頼の本当の父親であるという噂は、当時からあったようですね。なぜそんな噂が民間にまで広まったのかと考えると、誰かが意図的に流したのかと勘繰りたくもなります。
いずれにせよ、真相は淀殿の胸に秘められたまま大坂城と共に燃え落ちてしまいました。未だ解き明かされない謎を解くチャンスは、あなたにもありますよ。
(xiao)
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