室町幕府の第8代将軍といえば足利義政です。彼は幕府の財政難や一揆に頭を悩ませ、文化人としての道を歩みました。そのため政治が混乱し、足利将軍のなかでは不名誉な評価を受けているようです。しかし彼は、もともとそのような人物ではありませんでした。義政が文化人として生きるようになるまで、一体どのような経緯があったのでしょうか?
今回は、義政の将軍としての活躍、応仁の乱勃発までの経緯、残した功績などについてご紹介します。
室町幕府の第8代将軍に
8代将軍として名を残した義政ですが、もともとはその地位を期待されていませんでした。彼が将軍就任するまでの経緯を振り返ります。
わずか8歳で将軍職に選ばれる
義政は、永享8年(1436)第6代将軍・足利義教の五男として誕生しました。次期将軍として期待されていた同母兄・義勝は政所執事の伊勢貞国の屋敷で育ちましたが、義政はその可能性が低かったため母方の一族の烏丸資任(からすまるすけとう)の屋敷で育てられました。
嘉吉元年(1441)父が嘉吉の乱で暗殺された後、兄・義勝が第7代将軍として就任。しかしその兄も早逝してしまい、わずか8歳の義政が将軍に選出されます。文安6年(1449年)元服するとともに将軍宣下を受け、同日のうちに正式に第8代将軍として就任しました。
将軍の親裁権の強化をはかった
就任当初の義政は政治に積極的で、祖父や父の政策を復活させようと考えていました。鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との内紛にも積極的な介入を行っており、政所執事・伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆などの側近集団を基盤に、将軍の親裁権強化を図り守護大名らに対抗しようとしたのです。しかし、このような政治への情熱は長くは続きませんでした。
政治への意欲を失っていった義政
将軍として政治に力を入れようとした義政でしたが、主導権を握れずに徐々に意欲を失っていきます。なぜそのように変化したのでしょうか?
「三魔」による政治介入
義政のやる気を失わせたのは「三魔」でした。これは乳母の今参局(いままいりのつぼね)、育ての親である烏丸資任(からすますけとう)、将軍側近の有馬持家という「ま」がつく3人を指したもので、彼らが政治に介入したことで義政は主導権をとれなくなったのです。さらには母・重子、正室・日野富子の実家である日野家、有力な守護大名たちも次々に介入。彼らの思惑により、義政の意のままに動かせない事件が多数起こりました。
飢饉や呪詛騒動により現実逃避傾向に
そんな中、正室・富子との間にできた嫡男が早世してしまいます。富子はその死を今参局の呪詛によるものだとして彼女を流罪にし、これ以降は富子や将軍側近らの権勢が強まりました。また災害なども相次ぎ、寛正2年(1461)には寛正の大飢饉が起こります。大きな被害を出したこの飢饉では、餓死者の死骸で賀茂川の流れが止まったといわれています。
このような世情の中、義政は日本庭園の造営や猿楽や酒宴などに溺れていきました。飢饉の最中に花の御所を改築し、天皇からの勧告すら無視したのです。
後継者問題により応仁の乱が勃発!
さまざまな難題に背を背けるようになった義政ですが、やがて後継者問題から応仁の乱が起こります。その後の義政はどうなったのでしょうか?
弟・足利義視を後継者に決定するが…
趣味に没頭して政治に距離をおくようになった義政は、早くから隠居を考えるようになりました。妻との間に男子がなかったため、還俗させた弟・義尋に足利義視(よしみ)と名乗らせ次期将軍に決定しましたが、2年後には嫡男・義尚(よしひさ)が誕生します。これにより後継問題が勃発し、義尚を擁する富子は山名宗全に、弟・義視は細川勝元に協力を求め、内乱が大きくなりました。
しかし義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けたのです。
応仁の乱が全国規模へと発展
このころ義政の将軍継嗣問題に加えて管領家の畠山氏・斯波氏の家督争いも勃発しており、これに加担した管領・細川勝元と守護大名・山名宗全の対立が深まりました。この内乱は大規模なものとなり、その後11年も続く応仁の乱へと発展していったのです。
この戦いの最中、義政は上皇や天皇と宴会を開いて酒を飲み、趣味に没頭し続けました。当初は中立の立場で停戦命令を出した義政ですが、のちに勝元支持として義尚の継承を認め宗全追討を発令。文明5年(1473)西軍の宗全、東軍の勝元の両者が亡くなったことで、義政は将軍職を義尚へ譲って隠居しました。
隠居後、文化的活動に傾倒する
隠居後の義政は東山山荘の建築など文化的活動を本格化させました。そして文明9年(1477)ついに応仁の乱が終結しますが、このころから義尚とは意見が合わなくなり、富子との仲も悪化していったようです。そのため義尚を室町殿と、義政を東山殿と呼び、政治の決定機関が分裂していたといわれています。このような状況から、義政の文化的活動はさらに拍車がかかりました。
その後、義尚が死去したため義視と和睦し、義視の嫡男・義材(のちの義稙)を養子に迎えて第10代将軍に指名。延徳2年(1490)東山殿(銀閣)の完成を待たず享年55歳で死去しました。
義政の残した2つの功績
政治から遠ざかり趣味に興じた義政ですが、彼が残した大きな功績が2つあります。
この功績は後世にも大きな影響を及ぼしました。
わび・さびを重視した「東山文化」
義政の功績の1つは「東山文化」を築いたことです。義政は庭師・善阿弥、絵師・狩野正信、能楽者・音阿弥などさまざまな表現者を召し抱えたり、東山の地に東山殿を築いたりしました。東山殿はのちに慈照寺となり、現在でも銀閣と東求堂が残っています。
3代将軍・義満の時代におこった「北山文化」は華美な金閣などが特徴ですが、東山文化はわび・さびに重きがおかれています。代表的なものは「銀閣寺(慈照寺)」ですが、この時期に「初花」「九十九髪茄子」などの茶器も作られました。
勘合貿易の復活
もう1つの功績は、義教の死後に中断されていた勘合貿易を復活させたことです。これは16世紀半ばまで続き、経済や文化の発展に大きく寄与しました。
この財政再建策は成功し、義政政権の前半は義満時代とならぶほど幕府財政が安定していたといわれています。しかし実権を奪われた義政はそのお金を幕府や民衆のためではなく趣味に費やし、応仁の乱後の財政難の原因を作る結果となりました。その後、貿易の実権は細川家や大内家に奪われ、足利将軍家は経済的にも衰退の一途をたどります。
評価が二分する将軍
義政は応仁の乱を引き起こしたことから悪名高い将軍として語られることも多く、評価が大きくわかれています。しかし義政はもともと政治に積極的で、彼が復活させた勘合貿易では大きな利益も生み出しました。もし三魔などの介入がなければ、彼の治世はもっと良くなっていたでしょう。
この時期の大きな特徴といえる東山文化は、義政が政治に目を背けたことで発展したともいえます。彼が金閣寺を模して作った銀閣寺は、今でも京都の名所になっています。
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