【オスマン帝国の歴史を学ぶ②】終わりゆく壮麗王の世紀

世界史
【オスマン帝国の歴史を学ぶ②】終わりゆく壮麗王の世紀

2020年8月より最終章となるシーズン4がチャンネル銀河で日本初放送する『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』。4シーズン全312話にわたって描かれてきたこの壮大な物語をより楽しんでもらうべく、日本語字幕の歴史考察を担当した松尾有里子氏にドラマの歴史背景について語ってもらった。

※前回の記事はこちら:【オスマン帝国の歴史を学ぶ】壮麗王スレイマン1世と「女人の統治」

終わりゆく壮麗王の世紀

スレイマン1世の治世(1520-1566)はオスマン帝国の最盛期と言われるが、その前半期と後半期とでは、その様相はかなり異なる。スレイマンは即位後10年の間にベオグラード攻略(1521)、ウィーン包囲(1529)等バルカン支配の地歩を固め、内政においては有能な軍政官、ウラマー(イスラーム法学者)らを従え、広大な領土を統べる中央集権国家を完成させた。

さらに後宮(ハレム)では、寵妃ヒュッレムとの間に1521年から1531年までにメフメト、ミフリマーフ、アブドゥッラー、セリム、バヤズィト、ジハンギルと5皇子1皇女をもうけている(アブドゥラーは夭折)。マヒデヴラン妃との間の長男ムスタファも含めると、ここに次世代5人の皇子たちが揃い、オスマン王家の存続も安泰となった。このような治世前半に強固な支配体制を確立し得たのは、君主の指導力もさることながら、帝国の内外の情報に通じた大宰相イブラヒム・パシャの政治的手腕によるところも大きい。しかし、1536年、イブラヒムは突然、宮殿内で処刑された。

スレイマンの統治に大きく貢献した大宰相イブラヒム・パシャ

シーズン4では、盟友イブラヒム亡き後の治世後半期が描かれている。壮麗王の終焉に向かう時代は、対外戦争よりも法令や官僚制度の整備など内政に重点が置かれるようになる。しかしスレイマンの君主としての求心力は、巧みな権謀術数を弄する側近たちに阻まれて政権内で低下し、スルタン自身が自ら育てた官僚制機構の中へと取り込まれていく。

一方、名実ともに後宮(ハレム)の支配者となったヒュッレムは、ポスト・スレイマンの座をめぐる後継者争いに直面していた。当初、彼女は我が子を王位につけようと画策するものの、晩年その平和的解決に腐心する。ヨーロッパでは神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世が誕生し、失地回復のため、オスマン帝国に戦いを挑んできた。71歳になったスレイマンは痛風に苦しみつつも、最後の決戦の地、ハンガリーに向かう。

オスマン帝国における王位継承

オスマン帝国は王位継承において、伝統的に長子相続ではなく、分封制も採っていなかった。一つの王位を同世代の皇子たちの間で、競わせるのが慣例であった。スレイマンは即位時に他に兄弟がいなかったため、後継争いは生じなかった。しかし、先王セリム1世(在位1512-20)は即位時に、アフメト、コルクトなどの兄弟を処刑し、王位を安堵した。この新王による「兄弟殺し」はメフメト2世(在位1444-46、1451-81)の時代から慣例化していたから、次代を担う皇子たちにとり、生死を争う過酷な競争となっていた。

皇子は成人すると、地方の県知事職が与えられ、そこで指南役(ララ)や母親とともに、実地で帝王学を学んでいくのが倣いであった。伝統的に「皇子領」とされた任地は、イスタンブルから4日行程にあるマニサ、ブルサ、キュタフヤなどであるが、遠隔のコンヤ、アマスヤなども含まれていた。スレイマンは父セリム1世がアマスヤの県知事を務めていた時、管轄地のトラブゾンで生まれている。また、スレイマン自身も祖父のバヤズィト2世(在位1481-1512)時代から県知事としてカッファ、ボル、マニサなどに赴任した。皇子は任地で新たなオスマン家と擬似宮廷を築き、王位継承時に備えたから、複数の皇子がいた場合、首都の王宮を囲むいくつもの衛星国が存在していたことになる。

ムスタファ皇子の悲劇

有能で人望もあったムスタファは後継者候補と目されていたが…

スレイマンの皇子たちのうち、後継者として目されていたのは、病弱な末子ジハンギルを除く、長男ムスタファ、メフメト、セリム、バヤズィトであった。スレイマンは1541年、長男ムスタファを遠隔地アマスヤの県知事職に転出させた上で、翌年ヒュッレムとの間の長子メフメトを首都に近いマニサの県知事職に任じた。これはメフメトを後継者に目した人事とも言えるが、翌年メフメトは流行り病で急死する。その後、後継者は3人に絞られ、セリムがマニサ、バヤズィトがキュタフヤに配され、ムスタファは依然アマスヤで8年間県知事を務めることになる。

長男ムスタファはかつて大宰相イブラヒムが後継者に推していたほど、有能で人望があり、特にイェニチェリ軍団からの信望が厚かった。ムスタファがアマスヤに遠ざけられた理由は、明らかではないが、一説には我が子を王位にと目論むヒュッレムが大宰相リュステム・パシャ(皇女ミフリマーフの夫) と策動したからとされる。また老境のスレイマンが軍人らに人気のあるムスタファに嫉妬し、恐れていたからだという。父セリム1世がイェニチェリの支持を受け、クーデターで君主の座についた先例があるからである。

1553年、イラン遠征に向かう途中で「事件」は起きた。ムスタファはアマスヤから出征し、父スレイマンを出迎えるために全軍団がカラマンを過ぎた地点で本陣に出頭した。しかしその天幕の中で、突然処刑された。真偽のほどはわからないが、謀反の容疑がかけられていたという。ムスタファの突然の死に一時オスマン軍は騒然となったとされる。それだけ支持する軍人たちが多かったのであろう。スレイマンはムスタファと対立していた大宰相のリュステム・パシャを急ぎ罷免し、アマスヤのムスタファ一家を一掃することで事態の収拾をはかった。しかし、後継者をめぐる「悲劇」はこれにとどまらなかった。

ヒュッレムの苦悩

「一母一皇子」の慣例を破ったヒュッレムへの代償は大きく…

オスマン王家では、伝統的に「一母一皇子」が推奨されてきた。後宮で一人の女性から後継者となる男子は原則一人までとの慣習である。母后のハフサ・ハトゥンも男子はスレイマン一子のみであり、マヒデヴラン妃もまたムスタファ皇子のみであった。これは戦略的なリプロダクションともいえる。なぜなら、皇子が成人し県知事となった暁には、赴任地に付き添い新たな王家を形成し、後宮をはじめ、家政全体を取り仕切る役割を担うよう期待されていたからである。

ヒュッレムは皇子たちが県知事として活躍し始めた時、すでに年齢は40を越えていた。後宮組織を統括する一方、首都イスタンブルだけでなく、エルサレム、メッカ、メディナなどにもモスク、マドラサ、病院、救貧施設などの宗教寄進による建設を行っていた。慈善事業に熱心なヒュッレムも「一母一皇子」の慣例を破った代償は大きく、皇子たちの誰にも付き添うことが叶わず、イスタンブルの宮廷から後継レースを見守ることしかできなかった。記録によれば、1543年に赴任直後のメフメトとセリムに会いにマニサとコンヤを訪れており、また、メフメトの死後1547年にもマニサに転出したセリムのもとを末子ジハンギルと訪問している。断続的にしか付き添えない理由の一つには、病弱なこの末子を置いて首都を離れられない事情があったようだ。しかしながら、ジハンギルもムスタファ皇子の死後急逝してしまう。兄の処刑に衝撃を受けたのが原因と言われる。落胆したヒュッレムは病に身体を蝕まれていき、旧宮殿で過ごすようになった。

スレイマンの決断

自身の後継者問題にスレイマンが下した決断とは?

後継者争いの行方は、ヒュッレムの二人の皇子、セリムとバヤズィトに絞られた。スレイマンはムスタファの死後、セリムをマニサに、バヤズィトをキュタフヤの県知事に任命し、首都から近い任地を等しく与えることで両者から距離を置く姿勢を示した。しかし、二人の後継候補の下には、将来の出世を期待して軍人や官僚らが参集し始めた。とくにバヤズィトは軍事に優れた才能を発揮し、4人の皇子の父親ともなっていたから、オスマン王家の継承者として軍人の間では支持が高かった。

1558年、両者の緩衝役ともなっていた母ヒュッレムがこの世を去ると、直接対決は避けられぬ事態となった。スレイマンは二人に首都から遠いコンヤとアマスヤへ任地換えを命じた。バヤズィトにとり、兄ムスタファのかつての任地アマスヤへの配置転換は王位から遠のくことに他ならなかった。なかなか任地に赴かないバヤズィトに対し、スレイマンは後継者問題に自ら答えを出す決意をする。

オスマン皇女と大宰相たち

次の「女人の統治」時代を担っていく皇女ミフリマーフ

スレイマン治世後半に顕著なのは、オスマン皇女と宰相クラスの軍人政治家たちとの結婚である。ドラマの中での皇女と大宰相のカップルといえば、スレイマンの姉妹ハティジェとイブラヒム・パシャを思い浮かべるかもしれない。近年の研究ではイブラヒムの結婚相手は別人とされている。スレイマンが任命した4番目の大宰相ルトフィー・パシャはスレイマンの姉妹シャー・スルタンと結婚、6番目の大宰相リュステム・パシャはスレイマンの娘ミフリマーフと、7番目の大宰相カラ・アフメト・パシャはスレイマンの妹ファトマと、治世最後の大宰相ソコルル・メフメト・パシャはセリム皇子(後のセリム2世)の娘イスミハンと結婚している。彼ら「女婿」たちはダーマドと呼ばれ、オスマン王家の一員として王権を維持する要となった。

有能な軍人政治家との協働政権は、専制君主時代の終わりをも意味した。特に2度大宰相職を務めたリュステムはこれまでの武勇を誇る宰相とは異なる才を持った人物であった。ムスタファ皇子事件の責任をとって失脚したものの、ヒュッレム、ミフリマーフの信頼を得て復活し、吝嗇家で知られた彼は、戦費の支出で疲弊していたオスマン財政を立て直した。妻のミフリマーフは体調の優れぬヒュッレムを助けて後宮を取り仕切る一方、地方に赴任した兄弟たちとの連絡に奔走した。また夫とともに、宮廷建築家のスィナンに命じ、イスタンブルの都市機能の拡充を目的としたモスクの建設など宗教寄進を熱心に行った。ミフリマーフはリュステムの死後、セリム2世(在位1566-74)、ムラト3世(在位1574-95)の治世まで見届け、オスマン皇女ながら、母后と同等の地位を付与されるようになる。

壮麗王とハレムを舞台にした物語は終焉を迎える。しかしミフリマーフのような次の「女人の統治」時代を担う女性たちの誕生と動向は新たな関心の的となるであろう。

 

松尾有里子
お茶の水女子大学非常勤講師。専門はオスマン帝国史。ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』の日本語字幕における歴史考察を担当。

 


「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」シーズン4
放送日時:2020年8月3日(月)スタート 月-金 深夜0:00~ ※第1、2話スカパー!無料放送
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/ottoman/
出演:ハリット・エルゲンチュ(スレイマン)、ヴァーヒデ・ペルチン(ヒュッレム)、オザン・ギュヴェン(リュステム)、メフメト・ギュンシュル(ムスタファ)、ヌル・フェッタフオグル(マヒデブラン)、ペリン・ベキルオウル(ミフリマーフ)、アラス・ブルト・イイネムリ(バヤジト)、エンギン・オズトゥルク(セリム) ほか
制作:2013-2014年/トルコ/字幕/全93話

画像:「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」シーズン4  ©Tims Productions


<関連記事>
【ついに完結】「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜 シーズン4」2020年8月より日本初放送
【オスマン帝国の歴史を学ぶ】壮麗王スレイマン1世と「女人の統治」
漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』の作者・篠原千絵さんが語るトルコドラマ「オスマン帝国外伝」の魅力

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【三国志史上最強の武将:呂布】裏切りにまみれた生涯に迫る

コメント

タイトルとURLをコピーしました