【浮世絵師:歌川広重】ゴッホ・モネに影響を与えた男の生涯と代表作

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【浮世絵師:歌川広重】ゴッホ・モネに影響を与えた男の生涯と代表作

日本独自の浮世絵は世界で認められる日本文化の一つとなっています。その先駆けとなったのが、江戸時代に活躍した歌川広重でしょう。彼は世界を魅了した浮世絵師として知られており、その功績は国内外で認められています。

広重はどのような人生を送り、さまざまな作品を世に送り出したのでしょうか?

今回は、広重のうまれから絵師になるまでの流れ、不遇時代を経て人気絵師になった経緯、代表作品とその特徴などについてご紹介します。

うまれから絵師になるまで

早くから絵の才能に恵まれた広重。まずは、うまれから絵師になるまでについて振り返ります。

幼少期から絵に優れる

広重は、定火消同心(江戸城の消防を担う役人)の安藤源右衛門の子、本名・安藤重右衛門、幼名・徳太郎として誕生しました。幼いころから絵の才能を発揮していた広重は、10歳のころ既に『琉球人来貢図巻』などの作品を残しています。しかし、文化6年(1809)父と母を亡くし、幼くして家督と火消同心の職を継承。それ以降は火消同心として生きていくことになりました。

歌川広重の名を得てデビュー

文化8年(1811)15歳のころ、広重は幼いころからの絵への情熱により浮世絵師を志すようになります。当時人気だった初代歌川豊国に入門しようと考えますが、満員のために断られ、その弟子である歌川豊広に入門。美人画や風景版画を手掛ける豊広の画風を学んだ広重は、師と自分から1文字ずつとった「歌川広重」の画名を与えられ、浮世絵師としてのデビューを果たしました。

不遇時代を乗り越え人気絵師に

浮世絵師になった広重ですが、しばらくは不遇時代が続きました。しかし、あるキッカケから人気絵師の仲間入りを果たすのです。

兼業から専業絵師へ

文政4年(1821)火消同心・岡部弥左衛門の娘と結婚した広重は、その2年後に養祖父方の嫡子・仲次郎に家督を譲り後見人となりました。ただし仲次郎はまだ幼かったため、それ以降も火消同心の代番は勤めていたようです。

火消同心の仕事をしながら絵師を続けていた広重は、役者絵・美人画をはじめとして風景画や花鳥図にも幅を広げていきましたが、それでも人気が出ず、入門から約20年も不遇時代を送りました。

天保3年(1832)仲次郎の元服を機に同心職を譲った広重は、ついに絵師へと専心。この頃には、豊広のほかにも岡島林斎、大岡雲峰らに習い、西洋画法も学んでいたようです。

『東海道五十三次』で名声を得る

『東海道五十三次』より、鞠子(丸子)の名物茶屋です。

天保2年(1831)ごろ、広重は初の風景画シリーズ『東都名所』を刊行するも評判はいまいちでした。というのも、同じ頃に葛飾北斎の『富嶽三十六景』が発表されたからです。

北斎の斬新さに衝撃を受けた広重は、それから2年後に東海道の各宿場を描いた『東海道五十三次』を発表。これが出世作となり人気絵師の仲間入りを果たしました。当時流行していた十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公を登場させたことも大ヒットの一因となったようです。また、当時の旅行ブームも人気を後押ししました。

風景画家としての名声を得た広重は、その後も「東海道」シリーズや「江戸名所」シリーズのほか、歴史画・張交絵(はりまぜえ)・戯画・玩具絵・春画などを手掛け数々の秀作を生み出しました。

初代広重の死と、号の襲名

広重は晩年まで作品を制作し続けましたが、安政5年(1858)コレラにより亡くなります。「東路に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む (死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい)」という辞世の句を遺し、今も墓所である東京都足立区の禅宗東岳寺に眠っています。

「歌川広重」の画号は、歌川重宣、歌川重政、菊池貴一郎、菊池寅三が襲名し、5代まで続きました。

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代表作品とその特徴

江戸期浮世絵師としてさまざまな作品を残した広重。ここでは代表作品とその特徴をご紹介します。

『東海道五十三次』

『東海道五十三次』より、蒲原です。

東海道の53の宿場に、出発地の江戸と到着地の京都を足した、横大判の55枚揃物(保永堂版)です。出世作として知られるこの作品は、広重が「八朔御馬進献の儀」(幕府が朝廷に駿馬を献上する儀式)の公式派遣団の1人として東海道を旅し、そのとき写生したものを基に制作したというのが定説になっています。ただし現在は、実際は旅をしていなかったと考えられているようです。空前のヒットとなったこの作品は、『行書東海道』『隷書東海道』といったシリーズが20種以上も刊行されました。

『木曽海道六十九次』

『木曽海道六十九次』より、稀少といわれる雨の中津川です。

中山道の69の宿場と、出発地の日本橋を足した、横大判の70枚揃物です。このうち中津川宿については雨天と晴天の2つの図柄があるため、全体は71図となっています。雨天の中津川宿を描いた図はわずかしか流通しておらず、現存数が少なく稀少。これは、旅の思い出として雨天より晴天の図が好まれたという背景があるようです。なお、この作品は浮世絵師・渓斎英泉との浮世絵木版画の連作となっています。

『六十余州名所図会』

『六十余州名所図会』より、江戸の浅草市です。

日本の68ヶ国と江戸を合わせた69枚に、目録1枚を足した、全70枚の名所図会です。広重の晩年の作品で、縦長の画面、遠近法やトリミングなどの技術、斬新な構図などが特徴。浮世絵版画界の巨匠に上り詰めていた広重は、この当時の最高レベルの彫師や摺師を集めてこの作品を作り上げたといわれています。

『名所江戸百景』

『名所江戸百景』より、ゴッホが模写をした亀戸梅屋舗です。

四季折々の江戸の風景が描かれた連作名所絵で、死の直前まで制作が続けられた最晩年の作品です。生前に完成させられず、2代広重の作品と目録を足した120枚揃で『一立斎広重一世一代江戸百景』として刊行されました。

この作品はフィンセント・ファン・ゴッホが模写したことでも知られており、独特な構図や鮮やかな色彩は19世紀の欧州を席巻したといいます。広重の絵の藍色の美しさは、”ジャパンブルー”・”ヒロシゲブルー”と呼ばれました。

海外で評価される日本屈指の絵師

鳴かず飛ばずの時代を経て大きな成功を収めた広重は、死の直前まで作画し続けるなど、絵師としての人生を全うしました。その作品は海外でも大きく評価され、ゴッホやモネといった西洋画家にも影響を与えたといわれています。普段はなかなか鑑賞する機会がない浮世絵ですが、全国各地では広重の作品をはじめ様々な浮世絵展が開催されています。ぜひ一度足を運び、浮世絵のすばらしさに触れてみてはいかがでしょうか?

 

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