【島津の英主 島津貴久】薩摩統一を果たした戦国武将と息子たち

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【島津の英主 島津貴久】薩摩統一を果たした戦国武将と息子たち

島津氏、薩摩藩といえば、戦国時代・明治維新で活躍し日本の歴史に大きな影響を与えた勢力として有名です。しかし薩摩は戦国初期、多くの勢力が対立したまとまりのない国でした。それを統一し、後の強い薩摩藩をつくる礎となったのが島津貴久(しまづたかひさ)です。
今回は、薩摩統一の偉業を成し遂げた島津貴久と、その高名な息子たちについてご紹介していきます。

こうして薩摩統一を成し遂げた!

島津貴久
島津貴久。薩摩統一を成し遂げた武将です。

島津貴久が生きた時代には、多くの勢力が薩摩に存在していました。貴久は時に窮地に陥りながらも、それらの敵を見事打ち破っていきます。貴久が薩摩統一を成し遂げるまでの経緯について見ていきましょう。

島津実久との争い

島津実久(しまづさねひさ)は数ある島津家の分家のうち、島津薩州家の当主で実力者でもありました。貴久が薩摩統一の際、最大のライバルになったのがこの武将です。島津家の家督を奪うために強引な方法で当時の実権なき島津家当主・勝久を圧迫し、勝久の養子となって薩摩統一の理想に燃える貴久も窮地に陥れます。貴久は実久軍に居城を包囲され、一時は討ち死にを覚悟しますが、家来の説得によりわずか8名で脱出を果たしました。それ以後、貴久と実久は10年以上にわたって戦いを繰り広げます。島津当主の座についた実久に貴久は最初劣勢を強いられますが、実久の重要な拠点を次々と攻略していき、遂に薩摩最大の実力者であった実久を屈服させました。

苦難を経て「薩摩守護職」になる

苦労の果てに実久を打ち破った貴久ですが、今度は貴久の勢力拡大を問題視した、薩摩の諸氏13氏族が立ちはだかりました。貴久側に立つ勢力はわずかしかおらず、再び危機に陥ります。貴久は強大な敵勢力に対し、調略や一時の和睦などを講じ13氏族の結束を乱れさせ、撃破していきました。その活躍に朝廷も貴久を薩摩国主として認める意向を示し、各氏族もつぎつぎと恭順。遂に貴久は多くの障壁を乗り越え、理想としていた薩摩統一を成し遂げたのです。

大隈合戦で領土拡大にいたる

薩摩統一を果たした貴久ですが、次は隣国の大隈を攻め立てます。もともと大隈は島津氏に与えられながら、鎌倉時代の謀叛の連座で取り上げられた、島津氏にとっては奪回が悲願の土地でした。
味方である肝付氏が大隈の蒲生氏に攻められたのをきっかけに、大隈に進行し、策略を用いて蒲生軍を撃破。大隈西部を手中に収めます。これが後に息子の義久たちが大隈・日向を統一する足がかりとなりました。この戦いを最後の大きな成果として、貴久は家督を嫡男である義久に譲ります。

貴久の意思を受け継ぐ島津四兄弟とは?

貴久の四人の息子たちは、みなそれぞれが異なる個性を持つ大変優れた武将たちでした。兄弟全員がここまで優秀な例は他にないのではないでしょうか。貴久の息子たちである、高名な島津四兄弟についてご紹介します。

頼りになる!長男:島津義久

義久(よしひさ)は貴久の嫡男として天文2年(1533)に誕生しました。小さい頃は大人しい性格でしたが、祖父の島津忠良からは薩摩・大隈・日向をまとめる徳と器量があると期待されます。その期待に背かず、優秀な弟たちと家臣団を駆使し、島津氏数百年来の悲願である旧領三州を回復し、九州ほぼ全域の掌握を成し遂げます。それだけでも稀な成果を挙げた武将といえますが、豊臣秀吉や徳川家康という日本を代表する英傑に対して、外交の駆け引きをもって島津の領土を守り抜きました。まさに外交と戦争に長じた万能武将として、島津家を守り抜いた頼りになる長男といえるでしょう。

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英傑で最強?次男:島津義弘

島津義弘
島津義弘。貴久の次男として、勇猛果敢な戦いぶりで知られています。

義弘(よしひろ)は貴久の次男として、天文4年(1535)に誕生しました。兄に従い九州制覇に大きく貢献し、四兄弟中最も華やかな活躍を残した人物です。数ある戦国武将の中でも常識破りの活躍をしており、木崎原の戦いでは三百の寡兵で三千の敵兵を打ち破り、慶長の役においてはたった七千の兵で、三万を超える明・朝鮮連合軍を殲滅したまさに最強の武将です。極めつけは日本最大の合戦、関ヶ原の戦いの中、たった三百(とされている)の兵で敵陣中央突破による戦場離脱という例をみない退却戦を行い、歴史に「島津の退き口」という言葉を刻みました。強者ぞろいの戦国時代でも規格外の武将だったといえるでしょう。

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やんちゃな三男:島津歳久

島津四兄弟三男は歳久(としひさ)です。他の兄弟たちとともに九州掌握戦で数々の武功をあげました。彼が他の兄弟と違うのはそのやんちゃさかもしれません。兄弟が揃っている場で側室から生まれた末弟家久を中傷する発言をしたり、秀吉が攻めて来た時に一人だけ和睦を主張したり、家中が秀吉との講和に動いた時に、秀吉を策略にて暗殺しようとするなど、和を乱す行動が目立ちます。ただ歳久は祖父から「始終の利害を察するの智計並びなく」と称されており、秀吉が凡人ではないことを見抜いて和睦を進め、その後は島津の立場を弱めないように強硬姿勢を取るなど、他の兄弟たちと異なる視点で島津氏を守り通そうとしたことがわかります。

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兄への忠誠も堅い四男:島津家久

家久(いえひさ)は他の三兄弟とは異なり、側室の子として誕生します。年も他の兄弟と10歳以上離れており、実力にも差がありました。歳久から妾の子であることを中傷されますが、長兄義久により弁護されます。面目を保った家久はそれ以来努力を積み、他の兄弟と変わらない実力を手に入れました。その実力を持って肥前の龍造寺氏を撃破するなど、忠誠を捧げる長男の家久に貢献しました。秀吉との戦いでも、戸次川で長宗我部信親と十河存保を討ち死にさせ、秀吉軍を壊滅に追い込むなど優れた手腕を発揮します。惜しくも四兄弟の中では最も早く没しますが、その子である豊久も関ヶ原の戦いで名を残しました。

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偉大な父と息子たち

現在の鹿児島城跡
現在の鹿児島城跡。貴久よりも後の時代1601年に築城され、代々島津家の城でした。

島津貴久は苦難の中でも勝利への道筋をたて、最終的に薩摩統一を成し遂げた偉大な武将でした。また日本史上有名な四人の息子たちにも恵まれます。貴久の偉業と意志を引き継ぐ形で四兄弟は九州をほぼ掌握し、その後の日本の覇者である、豊臣秀吉や徳川家康にも島津の実力を認めさせ、明治まで家名を残したのです。

 

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