【激闘!桶狭間の戦いの謎 後編】少数を武器にした、信長の絶妙な心理戦とは?

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大河ドラマ『麒麟がゆく』で、物語のハイライトとして描かれる「桶狭間の戦い」。ドラマでは新説や独自の解釈による描写も多く、大いに盛り上がっているが、ここでも史料をもとに大逆転劇の真相に迫る。(前編はこちら

今川義元は「油断」していたのか?

永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の決戦当日。この日は、両軍とも夜明け前から目まぐるしく動き、戦局を刻一刻と変えていった。午前8時すぎごろ、熱田にいた織田信長は南下をはじめ、前線にある丹下砦へ移動した。

いっぽう、今川義元が率いる今川軍本隊も、攻撃の拠点に定めた大高城へ向かうべく、沓掛城から進軍を開始。その途中で「おけはざま山」を通ることとなる。

朝方、おけはざま山に差しかかった今川義元のもとに「松平元康の先鋒隊が丸根砦・鷲津砦を陥落させた」との知らせがきた。今川軍にとって幸先のよい知らせである。そのときの様子を『信長公記』ではこう記す。

「五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津、丸根攻め落し、『満足これに過ぐべからざる』の由にて、謡(うたい)を三番うたはせられたる由に候」

小瀬甫庵『信長記』などに記される旧説では、このとき義元は油断しきっており「酒宴を開いた」などとあるが、太田牛一『信長公記』の記述からすれば、上のとおり、義元が行なったのは「謡い」であって「酒宴」ではない。酒も出たかもしれないが、それも将兵の士気高揚を狙ったものだったかもしれず、この時点で「油断」と決めつけるのは難しい。

また旧説では、油断しきった今川義元は「田楽狭間」なる谷間に布陣。さらに『松平記』には、今川軍の将兵が弁当を食べていると、近隣の寺社から酒肴が届けられ、あたかもお祭りムードのようになったかのような記述もある。

このあたり、部分的には正しいのかもしれないが、概ね優位な側が敗北したことに必然性を持たせるための創作も含まれると思うべきだろう。後世に出た多くの軍記物では、今川軍が「谷間に布陣し、油断した」状態として描き、物語を盛り上げようとする傾向にある。

「今川本陣」と記された、おけはざま山と思われる山地(国立国会図書館蔵 桶間部類絵図/江戸時代 より)

『信長公記』は、義元の布陣地を「田楽狭間」ではなく「おけはざま山」と記す。リスクを考えれば死地にあたる谷間ではなく、高所に陣取ったのは当然でろう。

桶狭間の戦いの「本質」とは?

ただ、そもそもこの合戦は、両軍の大将がしっかりと陣を置いて向き合って行なわれた類のものではない。「移動中の今川軍を信長が急襲した」というのが特徴なのだ。

さて、戦勝に湧きはじめた今川軍。そこへ、織田軍の先陣部隊(佐々政次、千秋季忠)が、300の兵で今川軍に突如として攻撃をしかけてきた。今川軍は応戦し、これを散々に打ち破った。このときは、しっかりと備えをしていた様子がわかる。

義元はこの勝ちに「我が矛先には、天魔鬼神もたまるべからず」と喜び、また謡をうたったという。油断かはともかく、気を良くしていたのは間違いない。この小さな勝利が、義元に「驕り」を生じさせた可能性はありそうだ。

信長は、どうやって今川軍の位置を知ったのか?

さて、一方の信長だが、丹下砦からさらに前進して善照寺砦に入っていた。先に述べたとおり、300人からなる先陣部隊は壊滅し、指揮官の佐々政次と千秋季忠は討たれてしまった。この先陣部隊の派遣はもちろん『信長公記』に記されたことだが、少し謎めいている。信長自身が命じたのか、佐々と千秋の両将が「抜け駆け」したものなのかが明らかにされていないのだ。

その後、信長は善照寺砦を出て最前線にあたる中島砦へ移動した。先陣部隊は倒されたが、実はこのおかげで敵軍の位置をある程度把握できたのは確かだろう。

今川軍は、まだ本格的な戦闘態勢を整えておらず、移動中であるだけに隊列が長く延びていたはずだ。信長は、それを見逃さなかった。「少数の兵でも、今なら大打撃を与えられる」という計算があったのだろう。

今川軍は、なぜ信長本隊の急接近をあっさり許したのか?

信長はこのあと、2000足らずの兵を率いて中島砦からの総攻撃を命じることになる。それにしても、今川軍が信長本隊の急接近をあっさり許したのはなぜなのか。

桶狭間古戦場に建つ今川義元像

ここで注目したいのが、先に述べた先陣部隊300による攻撃だ。あの先陣部隊は陽動、つまり目くらましで使ったもので、それを退けた今川軍を安心させておいて、本陣へ斬り込んだのではないだろうか。

わざと少数であることを見せ、油断させた?

いっぽうで、信長が中島砦を出て攻撃の号令をかけたとき、家老たちは「無謀」と感じたようだ。それも無理はない。何しろ、中島砦は山上の今川軍から丸見えの位置にあった。

「我が方が少数であることが、敵方に見られてしまいます」と、信長の馬の轡(くつわ)をつかんだり、すがりついたりして、しきりに止めたのだという。しかし、信長はそれを振り切ってこう叫んだ。

清須城跡に建つ織田信長像

「皆の者、よく聞け。今川軍は夜(昨晩)に腹ごしらえをし、夜通しで行軍し、大高城へ兵糧を入れ、今朝は鷲津砦、丸根砦で戦ったばかりで疲れている。かたや我が軍は新手だ。『少数でも大軍を怖るるなかれ、運は天にあり』という言葉を知らぬか。敵が攻めてくれば退き、敵が退いたら追え。敵の武具は分捕らず、そのままにせよ。これに勝てれば末代までの名誉となる」

信長はわざと少数で動いてみせ、敵の油断を誘ったと見るのはどうだろうか。また最初に攻められた鷲津砦・丸根砦を捨て石とし、これまで大した応戦もしていない。それは自軍将兵の体力を温存させる狙いもあったのだろう。

豪雨がやんでから、正面攻撃したのはなぜか?

合戦を描いた絵には、豪雨のなかで戦う様子が描かれているが……(尾張名所図会より)

このとき「俄(にわか)に急雨石氷を投打つ様に……」と、雹のような雨が降った。従来、信長はこの雨に乗じて攻撃したように思われているが、実際に信長が「かかれ!かかれ!」と、攻撃を命じたのは『信長公記』には「空が晴れるのを待ってから」と書かれている。

今川軍は、豪雨のなかでの敵襲を警戒していたかもしれない。だが、豪雨が止んで一安心してからの攻撃は想定外だったということか。しかも信長本隊は小勢で、先陣部隊がやられた直後。たとえ攻撃したとしても、それこそ裏へ回り込んでの奇襲が、この場においては「常道」といって良かった。

しかし、信長はその「裏」をかいて「正面」から攻めた。心理の逆を突いた攻撃に、今川軍の将兵は慌てふためくしかなかったのではないか。また「信長も下り立って、若武者共に先を争い、突き伏せ、突き倒し……」と、大混戦のなか大将みずから馬を下りて武器を振るう、壮絶な戦いぶりを見せた。

「おけはざまという所は(中略)深田足入れ、高みひきみ茂り……」と、今川軍は退くにひけず、足を止めての斬り合いになった。それも織田軍にとって好条件だった。

戦いが長引くなか、信長は義元の旗本隊を見つける。「旗本は是なり、 是へ懸かれ」と命じた。その場に旗本隊がいることを、信長が最初から把握していたのかまでは分からない。偶発的な遭遇だった可能性もある。

かくして総大将同士が肉薄し、互いに武器をとって敵兵と斬り合う展開になった。ただ、これは「万が一」の事態も十分あり得た。信長が戦場の最前線で戦ったのは、この桶狭間と本能寺ぐらいである。

信長は最初から勝利を確信していたのか。そうであれば「神」というほかはないが、決して彼は神ではない。だからこそ情報収集に全力をかけた。最後は博打であったが、成功の可能性を十分に高めての「正攻法」に出たともいえるのではないか。

今川義元に突きかかる服部小平太と毛利新介(桶狭間大合戦 国立国会図書館蔵)

信長の情報戦・心理戦が、天運を引き寄せた

義元は輿を捨てて歩きまわり、退路を確保しようとしていた。その彼に一番槍をつけたのは服部小平太(一忠)だ。しかし、義元も剛の者。すぐさま応戦し、膝を斬って服部を倒す。

が、その隙に横合いから来た毛利新介(良勝)に組み伏せられ、あえなく首をとられてしまった。以上は『信長公記』の描写。『改正三河後風土記』では、義元は新介の左手の指を喰いちぎる奮戦を見せたとする。

かくして、信長は勝った。天運に恵まれたが、その運を呼びよせたのは、徹底した情報戦略の賜物。そして、以下の通りの「心理戦」の成果であったと言って良い。

<桶狭間の戦い 信長勝利のポイント>
■ 丸根砦・鷲津砦を捨て石とし、今川軍を領内深くまで誘い入れた
■ 攻めるに任せて敵の兵力を分散。応戦せず、自軍の体力は温存させた
■ 陽動部隊を派遣して、敵軍の場所を把握
■ 雨がやんだ後にあえて正面攻撃し、敵の裏をかいた

松平元康(家康)は、義元を救えなかったのか?

義元に従って参戦中だった松平元康(徳川家康)は、どうしていたか。彼は大高城で義元の到着を待っていた。よもや敗報を聞くとは思ってもいなかっただろう。だが、元康は義元本隊を救援できなかったのか。

結論からいえば、難しい状況だった。この日の元康は、大高城へ兵糧を運び入れたあと、真夜中から丸根砦の攻撃にかかった。これを陥落させ、予定通り大高城へ戻って休息していた。最前線に位置する大高城の確保は重要な役目であった。

松平元康(家康)は、大高城で戦況を見守っていた。(国立国会図書館蔵「桶挾間大合戦」より)

14時過ぎに義元が討たれ、大高城に「義元討死」の報せが届いたのは夕方。次々と届く敗報により、その情報が確かなものと知ると、元康は撤退にかかった。

だが、周囲は今川軍の敗報を受けて織田方についた勢力ばかり。落ち武者狩りに追われ、元康主従は8騎まで討ち減らされた。本能寺の変後の「伊賀越え」にも似たサバイバルの様相であった。

やがて、主従はかろうじて岡崎城下まで辿りついたが、菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市)の先祖の墓前での自害まで考えたそうだ。だが住職に諭されて思いとどまり、帰城したという(『開山伝記并基立由緒之事』)。

2年後の永禄5年(1562)、水野信元の仲介で元康は信長と清須同盟を結び(『松平記』など)、一戦国大名として乱世の荒波へと漕ぎ出してゆくのは周知の通りだ。信長と家康をはじめ、多くの人の運命を変えた桶狭間の戦いは、間違いなく歴史のターニングポイントだったといえるだろう。

文・上永哲矢

 

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