【真田幸村(信繁)】日本一の兵!六文銭を掲げた男の壮絶な最期と逸話

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【真田幸村(信繁)】日本一の兵!六文銭を掲げた男の壮絶な最期と逸話

日本史上で高い人気を誇る戦国武将・真田幸村(信繁)。平成28年(2016)にはNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公としても描かれた幸村ですが、その生涯は決して派手なものではありませんでした。大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった幸村の生涯とは、どのようなものだったのでしょうか?
今回は、真田家の名が知れわたるまでの経緯、幸村の立身出世と上田合戦での活躍、大坂の陣での奮戦、幸村にまつわる逸話などについてご紹介します。

 

真田家の名が知れわたるまで

幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。

真田昌幸の次男として生まれる

父・真田昌幸の肖像画です。

幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。

信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。

第一次上田合戦で徳川家康を撃退!

天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。

しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。

立身出世と関ヶ原の戦い

真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。

豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村

その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。

なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。

犬伏の別れ、そして西軍への従属

慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。

そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。

第二次上田合戦で圧勝!

現在は上田城跡公園として親しまれている上田城

徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。

大坂の陣での奮戦

蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。

赤備えにて大坂城に入城

慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。

大坂冬の陣:真田丸での攻防

広島市立中央図書館所蔵の『諸国古城之図』真田丸(摂津)です。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。

戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。

大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃!

黒田長政が絵師らに描かせた『大坂夏の陣図屏風』(通称:黒田屏風)

その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。

その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。

幸村にまつわる逸話

家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。

家紋・六文銭に込められた意味

真田家の家紋として有名な六文銭

真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。

兜が鹿の角である理由は?

幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。

敵将も幸村の武勇を称えた!

夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。

多くの人に愛される人気武将に

幸村は決して境遇に恵まれているわけではありませんでした。そんな彼が日本史上に名を刻んだのは、最後まで豊臣家に忠義を尽くし、家康に死を覚悟させるほど壮絶な戦いをみせたからでしょう。幸村は現代でも多くの創作作品で題材にされるほど人気の人物です。多勢に無勢でも最後まで諦めないその雄姿は、いつの時代も人々の心を魅了するのでしょうね。

 

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