【日本史上最大規模の一揆】島原の乱を先導した天童・天草四郎

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【日本史上最大規模の一揆】島原の乱を先導した天童・天草四郎

寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発し、寛永15年2月28日(1638年4月12日)に終結されたといわれる島原一揆
島原の乱と呼ばれ、農民たちが幕府軍を相手に戦ったこの一揆は、人々の心にインパクトを残しました。その中心にあったのがキリスト教であったこと、加えて総大将が16歳の少年だったということは特に衝撃的でした。今回は、島原一揆勃発の背景と総大将・天草四郎を中心にご紹介しましょう。

一揆勃発の背景

島原の乱の図
島原の乱の図

島原一揆の舞台となった九州は、肥前・島原半島に有馬氏、肥後・天草地方には小西氏とキリシタン大名が築いた地盤があり、人々にキリスト教が浸透していました。
しかし有馬氏が転封になると、新領主・松倉重政は重い年貢を課し、キリスト教を弾圧します。天草地方の領主・寺沢堅高も同様でした。凶作であっても、彼らは人々の現状を無視して重税だけを要求し、弾圧で返していったのです。

「キリシタン摘発に使われた踏み絵」
「キリシタン摘発に使われた踏み絵」

そんななか、旧有馬・小西の家臣には浪人も多く、彼らが中心となって一揆の計画が練られました。彼らの胸にはある神父の言葉が刻まれていたのです。

「天変地異が起こり人が滅亡に瀕する時、16歳の天童現れ、パライゾ(天国)が実現するだろう」

この時、彼らの前に現れたのが天草四郎時貞(益田四郎時貞)、16歳の少年でした。

現れた天童・天草四郎

「一揆勢の心のよりどころとなった天草四郎」
「一揆勢の心のよりどころとなった天草四郎」

四郎の父は小西行長の遺臣で、一族みなキリシタンでした。四郎は、聡明でカリスマ性も備えた容姿端麗な少年だったといいます。
盲目の少女に触れるとその目が見えるようになったとか、海面を歩いたとか、キリストさながらの奇跡を起こしたという伝説もあります。

眉唾ものかもしれませんが、実は四郎は豊臣家ゆかりの人物だという説もあります。というのも、彼の馬印が秀吉と同じ「千成瓢箪」だったことや、当時、秀頼の薩摩落ち説が流布していたことから、四郎が秀頼の落胤だという噂もありました。四郎自身が「豊臣秀綱」という名を持っていたという話もあるんです。

さて、まさに神父の言葉通りの「天童」が現れた頃。
年貢を納めきれなかった妊婦が冬の冷たい川で殺されるという事件が起きます。人々の怒りは頂点に達し、今こそ起つ時だと決意したのでした。

寛永14(1637)年、四郎を総大将に仰いだ島原の一揆勢力は、土地の代官を殺害して挙兵し、松倉氏の島原城に攻め込こみます。天草地方のキリシタン領民も呼応しました。この勢いに、ついに幕府も静観してはいられなくなったのです。

四郎を仰ぐ人々の団結と焦る幕府

「原城の遺構:後年、ここから多くの人骨が出土した」
「原城の遺構:後年、ここから多くの人骨が出土した」

一揆軍は、島原半島の廃城・原城に3万7千人で籠城し、幕府軍と対峙しました。
この最中、幕府軍の総大将・板倉重昌が討ち取られます。行き詰った幕府は、老中・松平信綱を切り札として派遣しました。九州の大名の増援も加わり、原城を囲む幕府軍は12万にも膨れ上がったのです。

壮絶な兵糧攻めとなりましたが、四郎を中心とした一揆軍は、内応や投降の誘いにも一切応じませんでした。四郎による「四郎法度書」が、一揆参加を「神の慈悲に応える奉公」と定めて人々の心をひとつにしていたのです。

しかし、やがて食料や弾薬が底を尽きます。それを待っていた松平信綱は総攻撃の命を下し、原城は落城します。四郎もまた討ち取られ、首は長崎の出島の入口に晒されました。しかしその首が果たして四郎のものかどうか、確実な証拠はなかったそうです。

こうして島原一揆は終結しましたが、残されたキリシタンは隠れキリシタンとなり生き延びていきます。そして、幕府はさらに鎖国を強化していくこととなったのです。

四郎自身は、総大将というよりもシンボルとしての存在であり、実際は周りの浪人たちが指揮したと考えられています。しかし、人々の心をひとつにする存在として、彼はジャンヌ・ダルク的な役割を果たしたのではないでしょうか。

(xiao)

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