徳川家康の家臣で江戸幕府創設に大きく貢献した、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人は「徳川四天王」とよばれています。なかでも徳川家随一の強さを誇ったのが戦国武将・本多忠勝でした。家康を描く創作作品では欠かせない存在といえる忠勝ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか?
今回は、忠勝のうまれから旗本部隊の将になるまでの経緯、徳川四天王としての活躍、関ヶ原の戦いとその後、忠勝にまつわる逸話などについてご紹介します。
旗本部隊の将になるまで
忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。
徳川家の最古参譜代として
忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。
三河一向一揆で家康方に
独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。
徳川四天王としての活躍
忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。
多くの戦いで勇名を馳せる!
元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。
わずか500人で大軍を威嚇
天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。
家臣団中2位の石高を得る
家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
関ヶ原の戦いとその後
秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか?
家康本隊にて武功をあげる
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。
病を患い、隠居
勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。
忠勝にまつわる逸話
並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。
愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」
忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。
負け知らず!?並外れた武勇
生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。
主君に敵将の助命を嘆願
関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。
徳川家康への厚い忠誠心
忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。
敵も味方も称賛した猛将
徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
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