和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当として活躍した人物です。武勇に優れていた彼は、源頼朝のさまざまな戦いに従軍し台頭しました。しかし、頼朝の死後、北条義時との対立により不本意な死を迎えます。義盛はなぜそのような道を辿ることになったのでしょうか?
今回は、義盛が侍所別当になるまで、平家追討と源氏兄弟の対立、御家人の乱での義盛の活躍、和田合戦と最期などについてご紹介します。
侍所別当になるまで
源頼朝のもとで頭角を現した義盛。彼が侍所別当に就任するまでの経緯を振り返ります。
源頼朝に味方し、挙兵
義盛は、久安3年(1147)三浦義明の子である杉本義宗の子としてうまれました。和田氏は三浦氏の支族で、所領の地名から和田姓を名乗ったといわれています。義盛を含む三浦氏は平家打倒の挙兵をした源頼朝に味方することに決め、治承4年(1180)8月、約500騎を率いて本拠・三浦半島を出立。頼朝との合流を目指したものの大雨の増水で足止めを食らい、そのあいだに石橋山の戦いで撃破された頼朝が行方知れずになります。三浦氏は本拠・衣笠城を襲われ、やむなく城を捨てて逃亡。祖父・義明が1人城に残って奮戦し討ち死にしました。
戦後、侍所別当に就任
やがて義盛ら三浦一族は頼朝の義理の父・北条時政らと合流し、次いで頼朝とも合流を果たします。『平家物語』によれば、このとき義盛は「父が死に、子孫が死んでも、頼朝公のお姿を見ればこれに過ぎる悦びはない。どうか本懐を遂げて天下をお取りください。その暁には私を侍所の別当に任じてください」と願ったそうです。侍所は、行事の警備などに当たる御家人の招集・指揮、罪人の収監などを行う組織のことで、別当はその最高位を指します。そして同年9月、頼朝方の残党が再挙し、参陣を命じられた各地の武士が合流。東国武士たちは数万騎の大軍に膨れ上がり、頼朝は源氏の本拠・鎌倉に入って平家軍を撃破しました。
その後、頼朝は関東統治のための諸機関を設置し、義盛は希望通り侍所別当に任じられます。また、頼朝の御所が完成した際には、入御の儀式で御家人の最前に立ちました。
平家追討と源氏兄弟の対立
侍所別当に就任した義盛はその後も平家追討で活躍。また、頼朝と弟の源義経の対立においては頼朝に味方します。
源範頼の軍勢に従軍
元暦元年(1184)8月、頼朝の異母弟・源範頼が平家追討の九州遠征に向かうと、義盛は軍奉行として従軍しました。慎重な性格だった範頼は、戦いについて義盛によく相談したようです。しかし、遠征軍は兵糧不足に苦しみ、船がなく九州にも渡れず戦いは長期化しました。『吾妻鏡』によれば、範頼はこのときの状況を「東国の者たちは戦いに退屈しており、本国を懐かしみ、和田小太郎義盛(和田義盛の別名)までもが秘かに鎌倉へ帰ろうとする始末です」と報告しており、義盛が鎌倉へ帰還しようとしていたのがうかがえます。その後、船を調達した義盛らは豊後国へ渡り、平家方を撃破して平家の背後の遮断に成功。寿永4年(1185)3月の壇ノ浦の戦いでは義経も奮闘し、平家は滅亡しました。
源義経の首実検を行う
平家の滅亡後、義経と頼朝は対立していきます。これは、義経が頼朝に従わず自分本位に行動したからともいわれますが、義経の軍奉行を担当していた梶原景時が義経を陥れる報告をしたのも理由の一つと考えられています。義経は頼朝に謝罪するも許されず、それどころか命を狙われていることを知り、頼朝追討の院宣(上皇の命を受けて出す文書)を得て挙兵しました。しかし、頼朝が義経追討の院宣を得ると、義経は奥州藤原氏のもとへと逃亡。文治5年(1189)には藤原秀衡の跡を継いだ藤原泰衡により殺害されました。その後、義経の首は鎌倉に届けられ、義盛と景時が首実検を行ったといわれています。
御家人の乱での活躍
平家を滅ぼし鎌倉幕府の基礎を固めた頼朝ですが、やがて子の源頼家の時代となり御家人の乱が頻発。義盛はここでもさまざまな活躍をします。
宿老として十三人の合議制に参加
頼朝の信頼を得ていた義盛は、建久元年(1190)9月、頼朝の上洛に際し先陣を担いました。同年12月には右近衛大将拝賀の随兵7人の一人に選ばれ、これまでの勲功として御家人10人の成功(じょこう=売官制度の一種)推挙が頼朝に与えられた際には、義盛もその1人となります。こうして頼朝の側近として勢力を強めた義盛ですが、建久3年(1192)には侍所別当職を景時と交代しました。『吾妻鏡』によれば、1日だけという条件で職を預けたものの、景時の謀略によりそのまま奪われたそうです。その後、頼朝が死去して頼家が2代将軍になると、義盛は宿老として十三人の合議制に列しました。
「梶原景時の変」と「比企能員の変」
建久10年(1199)10月、景時が結城朝光を陥れようとする事件が起こります。これを知った義盛ら66人の武士は景時の弾劾状を作り、頼朝時代からの将軍の側近である大江広元へと提出。失脚した景時は鎌倉を去り、正治2年(1200)1月には一族もろとも滅亡しました。これにより義盛は侍所別当に復職します。また建仁3年(1203)には北条氏と比企氏とのあいだで抗争が発生し、義盛は北条方として参戦。時政は権勢をふるっていた比企能員と、能員が擁する頼家の子・一幡を謀殺し、比企一族は滅亡しました。
源頼家の追放と執権・北条氏の台頭
比企能員の変は将軍・頼家が病を患っているあいだに勃発しました。病状が回復した頼家は、子・一幡の死と比企氏一族の滅亡を知り激怒します。頼家は義盛と仁田忠常に対し北条氏討伐を命じる御教書を書きましたが、義盛はこれを時政に届けました。これにより時政追討は失敗し、頼家は伊豆修善寺に追放されたのちに殺害されます。その後、将軍職は源実朝が引き継ぎ、時政が初代執権に就任。権勢を強めた時政の策謀により幕府創業の功臣でもある畠山重忠が一族滅亡に追い込まれ、北条義時が2代執権に就くなど北条氏が台頭しました。
上総国司を望むも……
承元3年(1209)義盛は上総国司の職を望み、将軍・実朝はこれについて北条政子に相談しました。しかし、頼朝のころから御家人が受領となることは停止されているという理由から聞き入れられなかったようです。義盛は今までの勲功を述べ、広元を通じて嘆願書を提出しましたが、それでも望みは叶いませんでした。
和田合戦と最期
北条氏の台頭により義盛は徐々に立場が悪化します。そして、義盛の運命を決定づける和田合戦が勃発しました。
北条義時と対立を深める
建暦3年(1213)2月、泉親衡の乱が起こります。これは、頼家の遺児を擁立し北条氏を倒そうという親衡の陰謀によるものでした。この事件には義盛の子や甥が関与しており、これを知った義盛は赦免を願い出ます。その結果、子・和田義直は許されましたが、甥・和田胤長は陸奥国へ配流となりました。胤長は和田一族90人が助命嘆願する前で縛られ、さらには鎌倉の邸が没収に。罪人の屋敷は一族に下げ渡される習慣でしたが、義時は乱の平定で手柄をあげた別の御家人にこの邸を譲ります。怒った義盛は、義時と対立し挙兵を決意しました。
義盛、一族とともに挙兵!
同年5月、義盛は一族とともに挙兵し激しい戦いを繰り広げます。和田一族は奮戦し、疲れによる後退がありながらも、援軍の協力を得て優勢を保ちました。しかし、大軍になりつつあった和田方の勢いを恐れた義時と広元が将軍・実朝の名で御教書を発すると、一気に形勢が逆転。多くの御家人たちが参戦した幕府軍は大軍となり、和田一族を次々と討ちました。この激戦のなかで子・義直を失くした義盛は号泣し、ついに義盛自身も討ち取られます。
幕府の実権は北条氏の手に……
合戦後、義時は義盛に代わって侍所別当を兼任し、政所別当と併せて幕府の実権を掌握しました。和田一族は追及処罰され、ほぼ滅亡しています。なお、和田合戦のキッカケとなった親衡の陰謀では和田一族以外の逮捕者はすぐに釈放されたため、実際は義時による陰謀であり挑発だったという見方もあるようです。
伝承によれば、敗戦後に落武者となった義盛は、南伊豆の庄屋の娘と結婚し山田に改名したともいわれています。
和田一族がほぼ滅亡した
源頼朝の挙兵に従った和田義盛は、鎌倉幕府で地位を築きさまざまな活躍をしました。武勇においては御家人たちの尊敬を集めるほどだったという義盛ですが、少々うかつな部分もあったようです。和田合戦が北条義時の挑発により起こったものだとすれば、そのうかつさが和田一族を滅亡に追い込んだともいえるかもしれません。
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