第3回「坂本龍馬・寺田屋遭難事件の真実を探る!」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】

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幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第3回のテーマは坂本龍馬の寺田屋遭難事件です。「寺田屋事件」と言うことが多いと思うのですが、実はこれ、別の事件をさすようです。龍馬を語る上ではずせない、寺田屋の真実とは?

現在の寺田屋(京都市伏見)。当時の建物は鳥羽・伏見の戦いによって焼失、その後再建されたもの。

「寺田屋事件」は誤った呼称

幕末の英雄・坂本龍馬が、慶応2年(1866)正月23日に、京都伏見の船宿・寺田屋で幕吏に襲撃された事件はよく知られています。

龍馬は両手を負傷し、危機に陥りながらも、かろうじて現場を脱出することができました。ちょうど入浴中だった恋人のお龍が、敵の襲来に気づいていち早く龍馬に知らせるという劇的な場面もあって、龍馬を語るには欠かせない出来事となっています。

この一件は、「寺田屋事件」と呼ばれることが多いようです。確かに寺田屋で起こった事件ですから、ついそう呼びたくなってしまうのもわかります。

しかし、実はその呼称は正しくありません。「寺田屋事件」もしくは「寺田屋騒動」というのは、文久2年(1862)4月23日に寺田屋で起きた、薩摩藩の内紛事件のことをいい、龍馬のほうはそうは呼ばないのです。

現在の寺田屋の隣、かつての場所は庭園となっており、龍馬像が立つ。

『国史大辞典』(吉川弘文館)を引いてみても、「寺田屋騒動」という項目に「文久二年四月、伏見の船宿寺田屋において薩摩藩尊攘派が弾圧された事件」とあり、龍馬のことは一切書かれていません。これが、歴史を愛好する者にとっての正しい認識なのです。

嘆かわしいことに、インターネットの「ウィキペディア」でも、「以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる」として、薩摩藩版と龍馬版の2つを紹介しています。繰り返しますが、そういう事実は存在しません。歴史学上でも、歴史出版の世界でも、「寺田屋事件」は薩摩藩版だけをさしているのです。

では、龍馬のほうはなんと呼べばいいのでしょうか。それについては、決まった呼称はなく、また決定版になるようなものもありません。私はいまのところ、「坂本龍馬の寺田屋遭難事件」などと呼んでいます。もっと適切な呼び名があればいいのですが、それがない現状ではこのように呼んでおくしかないでしょう。

お龍は裸で危機を知らせたか

薩長同盟締結の仲介という大役をなしとげた龍馬は、正月23日の夜、寺田屋2階の部屋で長府藩士・三吉慎蔵と祝杯をあげていました。席には龍馬の恋人で、寺田屋に預けられ仲居として働いていたお龍もいて、龍馬にとってはつかの間のほっとできるひとときでした。

晩年のお龍。

しかし深夜2時頃、敵は突然襲来します。伏見奉行所の手勢30人ばかりが、ひそかに寺田屋の裏口に詰めかけていたのです。

ちょうどそのとき、ひとり風呂に入っていたお龍が異変に気づき、危機を龍馬に知らせました。このときのお龍の姿が全裸であったとされ、事件を艶っぽく彩る材料にされることがあります。出典はお龍自身の談話で、明治30年(1897)に作家の安岡重雄に語った話が、昭和6年(1931)の『実話雑誌』に「阪本龍馬の未亡人」のタイトルで掲載されたものです。

「あの時、私は、風呂桶の中につかって居ました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かったのです。実際全裸(まるはだか)で、恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け上って、敵が来たと知らせました」

聞き書きとはいえ、お龍本人の談話です。実際、服を着る余裕もなかったのだろうと読んだ者は納得し、この証言を信じていました。

しかし、お龍が談話を発表したのはこの1回だけではなく、複数回あったのです。そのうち学者・川田雪山に語った話で、明治32年(1899)の『土陽新聞』に掲載された「千里駒後日譚」では、次のようになっています。

「私は一寸と一杯と風呂に這入って居りました。処が、コツンコツンと云ふ音が聞えるので、変だなと思って居る間もなく、風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態(わざ)と二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入って居るに槍で突くなんか、誰だ誰だと云ふと、静にせい、騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢゃないと庭へ飛下りて、濡れ肌に袷(あわせ)を一枚引っかけ、帯をする間もないから、跣足(はだし)で駆け出すとーー」

ここではお龍は全裸ではなく、濡れ肌に袷(裏地のある着物)を羽織っていたとされています。どちらもお龍自身の談話であり、またどちらも取材者の手の入った文章であるため、いまとなってはどちらが真実を語っているのかはわかりません。

ただ、いくら急いでいるとはいえ、風呂場のそばには脱いだ着物が置いてあったはずで、それを引っ掛けてから走ることくらいはできたのではないでしょうか。そう考えると、袷の一枚ぐらいは羽織っていたとみるほうが自然のように思えるのです。

龍馬は左手に重い後遺症を負った

お龍の注進を受けて、龍馬と三吉は敵の襲来にそなえました。この日、龍馬は盟友・高杉晋作から護身用にと贈られたピストルを所持しており、さっそくそれが実戦の場で役に立つことになります。

漢詩を書いた色紙と共に
拳銃を贈った高杉晋作。

龍馬を召し捕ろうと2階の部屋に押し寄せた10人ほどの捕り方は、みな槍をかまえていまにも襲いかかろうとします。その一番右にいた者に向けて、龍馬のピストルが火を噴きました。弾丸は見事に命中したとみえて、その者は後方に引き下がります。

続いて次の者に向けて、龍馬は2発目を放ちました。これも命中したらしく、敵は後方に下がります。龍馬は以前からピストルを持っていたわけではなく、この20日ほど前に高杉から贈られたのが初めてのこと。初心者とは思えない狙撃の腕には驚かされます。

次に3人目の敵を撃ちますが、これは当たったかどうかわからなかったようです。なにしろ暗闇のなかでの戦闘のため、双方とも手探り状態で戦っていたからです。

そのため、龍馬は自分の左側にいつの間にか一人の敵が迫っていたのに気づかず、三太刀ほど斬撃を受けてしまいます。龍馬自身が書いた手紙によれば、その状況はこのようなものでした。

「敵壱人、障子の蔭より進み来り、脇差をもって私の右の大指の本をそぎ、左の大指の節を切割り、左の人指の本の骨節を切たり。元より浅手なればーー」
(十二月四日付坂本権平等あて龍馬書簡)

つまり、右手の親指の付け根の肉をそがれ、左手の親指の関節を切り割られ、左手の人差し指の付け根の関節を割られたというのです。本人は「浅手」といっていますが、けっこう痛々しい負傷のようすがうかがえます。

その後、敵に4発目の銃弾を撃ち放ちますが、これも暗闇のなか当たったかどうかはわからず、5発目を三吉慎蔵の左肩を台座がわりにして慎重に撃つと、敵は眠って倒れるかのようにその場に倒れたといいます。

宝蔵院流槍術に長じていた三吉慎蔵。

この日の伏見奉行所側の死者数は、のちの京都見廻組隊士・今井信郎によれば「二人」。龍馬の銃弾を受けた4人のうち、2人が死に至ったということでしょう。

なお龍馬のほうの負傷は、右手の親指と左手の親指は60日ほどでもとどおりに治ったといいますが、左手の人差し指は傷口は治癒したものの、ついに思うように動かなくなってしまいました。龍馬自身はそのことを、

「私はこれより少々かたわになりたれどもーー」
(前掲龍馬書簡)

といっています。左手の人差し指に残った後遺症は、日常生活にはそれほど支障はなかったと思われますが、刀を扱う際には不自由を強いられたことでしょう。現存する龍馬の写真には、左手を隠しているように見えるものが多いのですが、これも無意識のうちに不自由な左手を隠してしまっていたのかもしれません。

左手を隠している?龍馬の写真。

龍馬が寺田屋で襲われた理由

寺田屋から脱出に成功した龍馬は、伏見の薩摩藩邸にかくまわれ、九死に一生を得ることができました。薩摩藩としても、薩長同盟締結に尽力してくれた龍馬は大切な存在でしたから、全力で保護にあたったのです。

ところで、そもそも龍馬はなぜ伏見奉行所に目をつけられ、襲われたのでしょうか。薩長同盟締結の周旋をしたからとよくいわれますが、こんな早い段階から幕府が薩摩と長州の同盟の動きを把握していたことは、従来は否定されていました。かなりあとになってからようやく同盟のことを知り、あわてる幕府というのが通説だったのです。

だから、龍馬が寺田屋で襲われたことについても、理由はあいまいなままにされていました。そうしなければ、幕府が知っていたかどうかの点でつじつまが合わないからです。

しかし、史料「莠草年録」が発見されて、ようやく事実が明らかになりました。幕府の目付・小林甚六郎が記録したこの史料には、奉行所が龍馬をねらった理由がはっきりと記されているのです。

「正月廿三日夕方、伏見寺田屋と申す舟宿に元土州藩、当時薩藩に相成りおり候坂本龍馬と申す者、(中略)風聞には右龍馬こと、薩長内応の周旋いたしおり候ものにて、その書類などもこれあり候よし」
(「莠草年録」抜粋。菊地明・山村竜也編『坂本龍馬日記』所収)

これは事件直後に書かれた記事であり、後年に記されたものではありません。いわゆる同時代史料に明記されているということは、龍馬が薩長間の周旋をしていたことがすでに幕府に知られていた証拠といえるのです。

寺田屋では結果的に龍馬を取り逃がしてしまった幕府ですが、その情報収集能力は意外なほどすぐれており、薩長にまさるとも劣らないものがあった。そういう事実を私たちはあらためて認識しておくべきでしょう。龍馬は、まさに危機一髪のところで命が助かったのです。



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