【大庭景親】石橋山の戦いで源頼朝を撃破した男の生涯を振り返る

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【大庭景親】石橋山の戦いで源頼朝を撃破した男の生涯を振り返る

平家と源氏の対立において、平家方の武士として活躍した大庭景親(おおばかげちか)。彼は源頼朝をあと一歩というところまで追い詰めた人物です。もし少しでも事情が違っていたら、鎌倉幕府は開かれていなかったかもしれません。そんな重要な場面にあった景親ですが、どのような生涯を送ったのでしょうか?

今回は景親について知りたい人に向けて、大庭氏が台頭するまで、源氏軍との戦い、頼朝再挙と景親の最期、景親にまつわる逸話などについてご紹介します。

大庭氏が台頭するまで

景親の一族・大庭氏はどのように台頭したのでしょうか? 景親の出自から平治の乱までについて振り返ります。

大庭御厨下司職を相伝する家系

景親は、鎌倉景宗の次男として誕生しました。詳しい生年月日は不明とされています。大庭氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、相模国・大庭御厨(おおばのみくりや)の下司職(荘園の現地で荘務を担当する地位)を相伝していました。大庭御厨は伊勢神宮に寄進した荘園で、当時は一等地だったといわれています。

天養元年(1144)ごろ、源義朝の家臣が2度に渡り大庭御厨に侵入し狼藉・略奪行為をはたらく事件が勃発。とくに2度目は1000騎以上の軍勢が乱入する大規模な暴動となり、父・景宗は下司としてこれにあたりました。この事件をきっかけに、大庭氏は義朝と従属関係を持つようになったと考えられます。

保元の乱で源義朝軍に属す

メトロポリタン美術館所蔵の『保元・平治の乱合戦図屏風』です。

保元元年(1156)、保元の乱が勃発し、景親は義朝軍に属して兄・大庭景義とともに戦いました。このとき景親は、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景正の末裔であると名乗りを上げたといいます。この戦いでは、景義が対峙した源為朝の矢を受けて落馬したため、景親は兄を助けて戦場から撤退。結果的に保元の乱は義朝軍が属する後白河天皇方が勝利し、景親は兄の負傷により家督を継承しました。

平治の乱後は平家に鞍替えし……

平治元年(1159)に平治の乱が起こると、景親は大庭氏の棟梁として出陣します。しかし、この戦いで義朝が敗死し源氏は没落。義朝に近い立場だった三浦氏や中村氏は相模国内で劣勢となり、義朝と疎遠だったと考えられる景親は平家への接近に成功しました。『源平盛衰記』によれば、景親は罪によって斬られそうなところを平家に救われ、恩を感じて平家の家人になったとされています。こうして大庭氏は、相模国内での立場を強化していきました。

源氏軍との戦いで活躍

世は平家全盛期でしたが、やがて源氏が挙兵します。源氏軍との戦いで景親はどのように活躍したのでしょうか?

兄・大庭景義と袂を分かつ

『前賢故実』より、大庭景義像です。

治承4年(1180)5月に以仁王(もちひとおう)が平家打倒の兵を挙げると、景親は追討の任にあたりこれを撃破しました。その後、平家の家人である伊藤忠清から、北条時政と比企掃部允(ひきかもんのじょう)が源頼朝を擁立して謀反を企てているという密書の存在を知らされます。景親はこのことを佐々木秀義に相談しますが、秀義の息子や景親の兄・景義はこのときすでに頼朝と通じていました。秀義は使者を通じてただちに頼朝に報告し、頼朝は挙兵を急ぎます。そして、頼朝は伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害し、300余騎を率いて相模国・土肥郷まで進出。この頼朝の挙兵により、景親は兄と決裂したのでした。

石橋山の戦いで圧勝するも……

景親は弟・俣野景久をはじめとする平家方3000余騎を集め、石橋山で頼朝軍と対峙します。三浦氏の軍勢が頼朝と合流しようとしているのを知った景親は、天候が悪くすでに日が暮れているにもかかわらず頼朝軍に突撃し、圧勝を収めました。兵力の少なさにより壊滅した頼朝軍は山中へと逃亡。景親は頼朝を捜索しましたが、ここで予想外の出来事が起こります。ともに捜索していた梶原景時が、頼朝の所在を知りながら景親らを別の場所に誘導したのです。これにより頼朝は命を救われ、安房国へと逃れました。

頼朝再挙と景親の最後

生き延びた頼朝は後に再挙します。景親はこの挙兵に対しどのように対応したのでしょうか?

頼朝軍は2万騎以上に

治承4年(1180)9月、景親は早馬で平清盛のいる福原に向かい、頼朝の挙兵を知らせました。このエピソードは『平家物語』において「大庭が早馬」として有名です。この景親の報告により追討軍の派遣が決まったものの、編成はなかなか進まず、そのあいだに頼朝は安房国で再挙し房総半島を進軍。千葉常胤、上総広常をはじめとした武士も加わり、武蔵国と下総国の国境にさしかかるころには頼朝軍は2万騎以上に膨れ上がりました。この大軍に景親はなす術がなく、頼朝軍は難なく鎌倉入りを果たします。

戦わずして敗走した平家軍

平家軍が敗走した富士川

一方の平家軍は、平維盛(これもり)を総大将とする軍勢が遅れに遅れて進発しました。諸国の武士らを集めながら進軍したものの、西国の飢饉により士気は低下していたといいます。景親は平家軍と合流すべく1000騎を率いて出発しますが、西方はすでに敵に固められており、やむなく兵を解いて逃亡。また、源氏の大軍と対峙した維盛率いる平家軍は、富士川の戦いで戦わずして敗走しました。

降伏し処刑される

頼朝軍に降伏した景親は広常に預けられます。そして数日後、固瀬川で処刑されさらし首となりました。神奈川県藤沢市には景親を祭神とする「大庭神社」が建てられています。この神社は主祭神を神皇産霊神とし、安永6年(1777)に景親を、天明3年(1783)には菅原道真を合祀しました。江戸時代には「天神宮」「大庭大明神」「大庭天満宮」などと呼ばれていたようです。なお、頼朝方についた兄・景義は御家人に列し、鎌倉幕府に仕えて長生きしたということです。

景親にまつわる逸話

平家軍として奮戦するも、最後は頼朝軍に降伏しこの世を去った景親。そんな彼に関する逸話をご紹介します。

悲しき伝説が残る「妻塚」

静岡県三島市にある「妻塚観音堂」は、景親の妻をまつる祠だといわれています。頼朝は源氏再興を願って三嶋大社に通っており、景親はそんな頼朝を狙っていました。ある夜のこと、景親は頼朝らしき人影を見つけて斬り殺します。しかし、よく見てみるとそれは自分の妻の姿でした。妻は源氏に縁がある家にうまれたため、景親を思い止まらせようと待ち伏せしていたのです。後悔した景親は、妻の冥福を祈るために祠を建てたといわれています。

後北条氏の拠点となった大庭城

大庭御厨の中心にあった大庭城は、景親のゆかりの城として伝わっています。父・景宗が築城したこの城は「大庭の舘(たて)」と呼ばれ、重要な軍事拠点としての役割を担ったようです。室町時代中期には江戸城を築城したことで有名な太田道灌(おおたどうかん)が修築し、戦国時代になると後北条氏の関東制圧の拠点の1つとなりました。

平家方として戦い抜いた

1度は源氏に与しながらも、兄・景義とたもとを分かち、平家側として戦い散っていった景親。頼朝の挙兵をいち早く知ったり、石橋山の戦いで頼朝を追い詰めたりと活躍しましたが、いずれも裏切った仲間に足を引っ張られています。後に頼朝が鎌倉幕府を開府することを考えると、景親は時の流れを見誤ったといえるかもしれません。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、國村隼さんがどのように景親役を演じるか楽しみですね。

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