佐賀県はかつての肥前国の東半分に当たる地域で、江戸時代は南部を佐賀藩(35万7千石)、北部を唐津藩(6万石)が統治していました。
佐賀藩は慶長7(1607)年、鍋島勝茂を初代藩主として成立。筑後川の堤防を築き、佐賀平野での新田開発を熱心に進めた結果、実質の石高は70万石以上に達していたとされ、九州でも有数の大藩となります。支藩が多かったため財政難に悩まされましたが、江戸時代後期には10代藩主の鍋島直正が藩政改革に着手。西洋技術を導入して日本発の鉄製大砲を建造するなど軍備を近代化し、明治維新の際には新政府の成立に大きく貢献しました。
その佐賀に伝わる恐ろしい話が、かの有名な「鍋島の化け猫騒動」です。
鍋島の化け猫騒動とは?
ある時、2代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣・龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたため惨殺されてしまいます。
又七郎の母は恨みを口にしながら自害。この時に母の死体から流れた血をなめた飼い猫が化け猫となり、側室・お豊の方を食い殺して乗りうつり光茂に近づきます。それ以降、家臣が発狂したり、奥女中が惨殺されたりと、さまざまな怪異が発生。光茂も苦しめられますが、最後は忠臣が化け猫を退治して佐賀藩を救うという伝説です。
別のパターンでは、藩主は光茂ではなく父の勝茂とされ、化け猫が姿を変えた側室・お豊の方に取り殺される寸前まで追い詰められます。しかし、鍋島家の家臣で槍の名手である千布本右衛門がお豊の方の正体を見破って成敗。夜が明けると屋敷の庭には、槍で突かれた傷のある大きな三毛猫の死骸があったといいます。
もちろん化け猫騒動は事実ではなく、又七郎もお豊の方も実在の人物ではありません。
この騒動の下地となっているのは、佐賀藩成立時に発生した鍋島家と旧主家の龍造寺家との間の権力闘争です。
「鍋島騒動」と呼ばれたこの事件をモチーフに化け猫が登場する歌舞伎演目や講談がつくられ、大ヒット。
当時の人々には、あたかも実際の出来事として記憶に刻まれたようです。
鍋島騒動の真実
史実では、猛将として知られた龍造寺隆信が島津家との合戦で敗死したのですが、跡取りの政家は凡庸でした。
このため時の天下人だった豊臣秀吉は、龍造寺家の実権を握っていた重臣の鍋島直茂による肥前の統治を認めてしまい、主従逆転が生じてしまいました。この状態は江戸時代になっても解消されず、龍造寺一族は巻き返しを図ろうとして鍋島家と対立。結局、龍造寺家の再起はならなかったのですが、重臣も巻き込んだ争いに発展したことで佐賀藩内に深い傷を残したのです。
化け猫騒動は明らかにフィクションなのですが、佐賀県白石町の秀林寺には、なぜか、この騒動と関係するとされる「猫塚」があります。
塚の由来によると、化け猫を仕留めた千布本右衛門は英雄となったのですが、これ以後、千布家は男子に恵まれず、養子を迎えて代々の当主としていました。不審に思った7代目の千布久右衛門が、成敗された化け猫の怨念ではないかと疑い、尾が7本ある白猫の姿を描いた掛軸を作って毎年猫供養を営んだところ、男子が授かるようになって家系が続いたとのこと。
猫塚は明治時代初期に作られたもので、現在もキャットフードなどをお供えする人たちが絶えないそうです。
飼い主の仇を討とうとした化け猫は忠義心に厚いともいえますが、ついにその目的を遂げることはできませんでした。
こんなところが龍造寺一族と家来たちの無念の思いとつながっているのかもしれませんね。
参照元:白石町ホームページ