【短歌革新した俳人:正岡子規】病床で俳句を作り続けた男の一生と逸話

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【短歌革新した俳人:正岡子規】病床で俳句を作り続けた男の一生と逸話

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句で知られる正岡子規。この句は、松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」とともに俳句の代名詞として広く知られています。短歌改革を進めた子規は約2万の句を詠み、俳人としての人生をまっとうしました。主要著書には『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』『俳諧大要』『歌よみに与ふる書』などがあり、生涯にわたって精力的に活動を続けました。

今回は、子規のうまれから学生時代まで、俳人としての活躍や晩年、残された逸話などについてご紹介します。

うまれから学生時代まで

幼少期の子規はどのような少年だったのでしょうか?うまれから学生時代までの子規について振り返ります。

漢詩や戯作に親しんだ少年時代

子規は、慶応3年(1867)松山藩士の正岡常尚と、儒者の大原観山の長女・八重の間に長男として誕生しました。本名は常規(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)といい、のちに升(のぼる)と改名しています。

明治5年(1872)父の死により幼くして家督を相続すると、子規は大原家と叔父の後見を受けるようになりました。観山の私塾で漢書の素読を習った彼は、少年時代から漢詩・戯作・書画などに親しみ、自由民権運動の影響で政談にも熱中したようです。また、12歳のころには友人と回覧誌『桜亭雑誌』『松山雑誌』を作り、試作会を開きました。同級には松山在住時からの友人であり、後に日露戦争でバルチック艦隊撃破に貢献した秋山真之がいます。この2人の関係はNHKドラマ「坂の上の雲」で描かれ、広く知られるようになりました。

帝国大学哲学科に進学

明治16年(1883)東京・新橋で撮影された記念写真。前列右が正岡子規です。

明治16年(1883)上京して現・開成高等学校に入学した子規は、その翌年、旧藩主家・久松家の育英事業である常盤会給費生10名に選ばれます。同年、大学予備門(大学の予備機関)へ入学。ここでの同級には、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らがいました。

明治21年(1888)夏季休暇で訪問した鎌倉で初めて喀血(かっけつ)した子規は、翌年5月に大喀血し医師から肺結核と診断されます。結核は不治の病とされていたため、子規は必然的に死を意識したようです。このときホトトギスの句を作り、初めて「子規」の号を用いました。そして2年後、帝国大学(東京大学)哲学科に進学。文学に興味をもった子規はのちに国文科に転科し、小説家を夢見て執筆を始めました。

新聞記者から俳人へ

社会人になってからの子規はどのような生活を送ったのでしょうか?晩年までの様子を振り返ります。

新聞で連載を始める

幸田露伴の『風流仏』を読んで傾倒した子規は、明治25年(1892)自身の小説『月の都』を持って露伴を訪問しますが、好評がえられず小説家の道を断念します。同年7月、学年試験に落ち退学を決意。また9月には給費生も辞退し、家族を呼び寄せて新しい生活をスタートさせました。その年の12月、子規は日本新聞社に入社し、新聞『日本』の記者となります。ここで『獺祭書屋俳話』を連載し、のちに単行本を刊行。『日本』に俳句欄を設けるなど俳句の革新運動に着手し、根岸(現・子規庵)に転居し句会を開くなどしました。

日清戦争と病状悪化

明治27年(1894)日清戦争が勃発し、子規は従軍記者として遼東半島に渡ります。ところが上陸の2日後に下関条約が調印されすぐに帰国。その船中で喀血して重体となり、神戸での入院と須磨での保養ののちに松山に帰郷しました。その後は、当時松山中学校に赴任中だった漱石の下宿で静養したようです。

同年10月の再上京のころからは腰痛で歩行困難となり、結核菌による脊椎カリエス(結核性脊椎炎)と診断されます。何度か手術を受けたものの、病状はなかなか好転しませんでした。

俳人としての晩年

明治33年(1900)に描かれた、正岡子規の自画像です。

歩行不能になった後もたびたび人力車で外出していた子規ですが、明治32年(1899)夏ごろからは座ることすら困難になりました。その後の3年間はほぼ寝たきりで寝返りすら苦痛だった子規ですが、麻酔を使いながら俳句・短歌・随筆を書き続けます。また、写生文の必要を説いたり、高浜虚子ら後進の指導をしたりしながら、俳誌『ホトトギス』の刊行も支援しました。しかし次第に症状が悪化し、明治35年(1902)34歳の若さでこの世を去りました。

正岡子規にまつわるエピソード

俳人としての人生を歩んだ子規。そんな彼にまつわるエピソードについてご紹介します。

雅号「子規」とホトトギス

雅号の「子規」はホトトギスの異称で、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスを、結核で喀血する自分と重ね合わせたものだといわれています。この号が象徴するように、子規の文学は病と切り離せないものでした。母の回想によれば、子規は幼いころから虚弱体質で、内向的な性格からよくいじめられていたそうです。しかし、そのような経験や発病により子規の文学が確立されたといえるでしょう。

子規はそのほかにも多くの雅号を用いており、随筆『筆まかせ』で54種類の号を使用していると記しています。

野球用語を翻訳した

明治23年(1890)3月に撮影された、野球ユニフォーム姿の正岡子規です。

子規は野球好きなことでも知られています。喀血するまで大好きな野球をプレイし続けていた彼は、幼名の升(のぼる)にちなんで、野球(のぼーる)という雅号を用いることもありました。

また、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と翻訳するなど、野球用語の翻訳にも尽力しています。その功績により、2002年には野球殿堂入りも果たしました。なお、「ベースボール」を「野球」と訳したのは中馬庚(ちゅうまんかなえ)で、子規によるものではないようです。

「月並み」の語源に?

「月並み」という言葉には陳腐・凡庸などの意味が含まれます。これは、ありふれた俳句や短歌に対し、子規が「月並み調」と批判したことに由来しているそうです。この当時、和歌や発句は月例の句会で詠み合わせすることが多く、この会は「月並み句会」と呼ばれていました。

夏目漱石との関係

大学予備門時代の夏目漱石です。

漱石は大学予備門時代からの友人で、漱石の下宿で俳句会を開いたり、漱石のイギリス留学後も手紙をやりとりしたりと、交流を続けていました。二人が最後に会ったのは、漱石が渡英した明治33年(1900)のこと。このとき子規は「僕はもうだめになってしまった」と弱音を吐いています。子規は、漱石の手紙を読むとイギリスに行った気持ちになり嬉しいからと手紙を書くよう頼みましたが、このころ漱石はストレスで心を病んでおり、手紙を書けませんでした。

漱石はこれを後悔したようで、代表作『吾輩は猫である』は子規の携わった『ホトトギス』から発表されました。また、漱石の号自体、もともとは子規のペンネームの1つでした。

日本の近代文学を確立した

俳句や短歌の革新者として名を残した正岡子規。彼は若くして病に侵されましたが、死の間際まで句作し続け、多くの作品を残しました。35年と短い人生でしたが、その中身は濃いものだったといえそうです。子規とその親友・漱石は、日本語の近代化に大きく貢献し、日本の近代文学を確立しました。子規の功績は今後も語り継がれていくでしょう。

 

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