歴人マガジン

【大奥という籠から出て…】影から明治維新に貢献した女性たちのその後

女の園、「大奥」
現在知られている大奥は、第3代将軍・徳川家光の時代、家光の乳母であった春日局により作られた女性ばかりの組織です。
大奥の女性たちは誓詞血判させられており、内情が外に漏れる事はなかなかありませんでした。

役職も仕事も多岐に渡っていました。力仕事用の女性や大奥で出た罪人を処罰する女性、警備員などもすべて女性が行っており、女性だけですべての事柄が賄える仕組みになっています。将軍の夜の相手をした女性は「御手付き」として、子供の有無に関わらず大奥(関連部所含む)からは出られませんでした。雑用の女中であっても気軽に帰省出来なかったほど厳しい環境だったのです。

しかし明治の世になれば、徳川体制を守る為の大奥という組織は必要がなくなってしまい、働いていた女性たちは一斉に江戸城から出されてしまったのです。大奥の女性たちは、明治の世でどういった生活を送ることになったのでしょうか?

最後まで徳川の女として…大河ドラマにもなった篤姫(天璋院)

篤姫
政略結婚ながらも徳川の女として尽力した篤姫

映画、ドラマ、舞台、小説と様々な媒体で取り上げられることの多い幕末の女性、篤姫
九州の薩摩おこじょだった篤姫は、薩摩藩の意向で13代将軍の家定と結婚します。
しかし、安政5(1858)年に家定が急死。僅か1年9ヶ月の結婚生活が突如として終わり、篤姫は落飾・出家し「天璋院(てんしょういん)」と称することになりました。家定の死後も、跡継ぎ問題や慶喜の大奥改革、大政奉還と常に政治的な役割を担っていきます。

大政奉還後は薩摩には戻らず、江戸から名前の変わった東京に残ることに。薩摩からの援助を受け取らず、徳川宗家の16代目「徳川家達」を育てていたことから、薩摩の女ではなく、徳川の女として生涯を過ごす決意は固かったようです。
家達には当時先進的な教育を受けさせ、海外留学させたりと熱心な教育ママ振りを見せます。

また、一般的な街中を自由に歩き回ることを好んでおり、よく勝海舟と商店や芝居など様々な所へお出かけしていました。ただ、目的としては楽しむだけではなく、篤姫に一般的な常識と現在の潤沢ではない徳川家の予算を教える意味もあったとか。

大奥の外の生活を満喫していた篤姫ですが、明治16(1883)年にお風呂場で転倒したことから脳卒中となり帰らぬ人となりました。享年47歳。
葬儀には一万人もの人が集まり、篤姫の存在の大きさを現しています。

大奥といえばこの人?御年寄・瀧山のその後

十代から大奥に入り、13代将軍の家定、14代将軍の家茂時代に将軍付の御年寄として活躍した瀧山
御年寄とは現代のような高齢者を指す言葉ではなく、将軍やその正室の御台所に謁見が可能な「御目見以上」の役職名です。
ちなみに、ドラマなどでよく使用される「大奥総取締役」という役職は架空のもので、「御年寄」が正しい役職名。「御年寄」よりも「大奥総取締役」の方が格好良く「御年寄」って名乗ると微妙な空気になるので新しい役職名を付けたのでしょうね。

ドラマなどでは篤姫と対立する大奥の重鎮、という描かれ方が多いですね。実際にも激しく政治的な対立をしており、15代将軍を誰にするか篤姫と争っていました。

江戸城を出た後は、叔母である「染島」と一緒に、自身に仕えていた侍女の「仲野」の家に身を寄せることになります。一組の夫婦を養子にし(仲野と婿養子という説も)、「瀧山」という名を名乗らせることで瀧山家を起こしました。
明治9(1876)年に71歳で死去。埼玉県川口市に位置する徳川家とは縁が深い「錫杖寺」に、瀧山の墓があります。右には染島、左には仲野の墓があり、今も仲良く3人で眠っています。

悲劇の皇女?和宮(静寛院宮)

「和宮親子内親王の肖像画」
和宮親子内親王の肖像画

朝廷と幕府の確執の中で、政略結婚のために大奥へ入った和宮は悲劇の皇女として知られています。
当初は「京風の暮らしを変えたくない」と様々な要求を繰り返し、嫌々ながら江戸の徳川家へ降嫁します。しかし、夫となる14代将軍・家茂は優しく、結果的に相思相愛の政略結婚となりました。
徳川15代将軍の中でも有数な仲睦まじい夫婦だったのですが、家茂は慶応2(1866)年、僅か20歳で亡くなります。
同日、和宮は落飾・出家し「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と称することに。家茂の死後、大政奉還まで和宮は大奥から、朝廷へ徳川の寛大な対応を願い続けます。

江戸城明け渡しの際は、家茂の母である実成院とともに徳川系である田安家の屋敷へ移りました。明治2(1869)年に暇乞いをし、東京から生まれ育った京都へ一時戻り、明治天皇との対面と仁孝天皇陵へ参拝します。
大奥でカゴの鳥だった華奢な皇女は、明治維新後に皇族、徳川問わず幅広い交流を実行したようです。

明治10(1877)年、脚気衝心の療養先の箱根で32年の人生に幕を閉じました。東京都港区にある徳川家の墓所に、夫・家茂と並んで埋葬されています。
1950年代、再開発のために墓所が移転される際に和宮の遺骨のそばには、家茂とされる若い男性らしき人物が映った写真がありました。
たった4年の慌しい結婚生活でしたが、動乱期を経て違う世界で新たな2人の時間を過ごしているのかもしれませんね。

江戸城受け渡しの際、新政府軍が女性達の去った大奥へ入ると、驚くほど徹底的に清掃がされて美しかったそうです。
女性には女性の、強く、美しく、気高いプライドがあったのでしょう。

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