偉人に毀誉褒貶はつきものですが、徳川慶喜ほどその幅が広い人物も珍しいのではないでしょうか。
「幕軍兵士を見捨てた裏切り者」「名誉を捨てて日本を守った英雄」この両極端に分かれるのです。なぜ、慶喜はここまで評価が分かれるのか。今日は、その理由を紐解いていきましょう。
名を捨てて実を取る?慶喜の計算
将軍として幕政を握った慶喜でしたが、既に幕府の権威はだいぶ落ちていました。薩摩長州をはじめとする討幕派諸藩は、幕府を武力で征伐しようと画策します。そこで、内乱を避けるために慶喜が打って出た奇策が「大政奉還」だったのです。
慶応3(1867)年10月14日、慶喜は政権を朝廷に返上します。朝廷や反幕府側の体制が整わないうちに政権を返上すれば、実際の政権運営に支障を来し、雄藩連合で政権を運営する必要が生じます。徳川家は政権を手放したとしても、日本一の大名であることに変わりはありません。雄藩連合で慶喜が主導権を取れるという、名を捨てて実を取る作戦が大政奉還だったのです。
しかし、この作戦は12月の王政復古の大号令で徳川家を政権に加えないと決定したことで頓挫します。
「裏切り者」慶喜
慶応4(1868)年1月、幕府軍と薩摩・長州の軍勢が戦闘を開始しました。鳥羽・伏見の戦いです。
この戦いで、数に勝る徳川軍が敗れ、薩摩・長州側に錦旗が翻りました。この時点で、慶喜は賊軍と見做されてしまうのです。慶喜は幕府軍兵士を大坂城に残したまま、軍艦で江戸に逃亡します。日本一の幕府海軍はまだ無傷で、形成逆転は十分に可能でした。しかし、慶喜の逃亡によって幕府軍の士気は落ち、他藩も続々と新政府軍に恭順していきます。慶喜が「裏切り者」と貶されるようになったのは、このためです。
慶喜の父・水戸烈公
慶喜はなぜ敵前逃亡をしたのでしょうか。それは、錦旗が怖かったからです。この理由を理解するには、慶喜の生い立ちを知らねばなりません。
慶喜は、天保8(1837)年に水戸藩・徳川斉昭の七男として生まれました。父・斉昭は当時日本でも最も過激な尊王攘夷思想の持ち主です。
水戸藩は、徳川光圀以来、尊王思想で名高い水戸学の本拠地でした。幼い頃から天皇は尊い存在であると教え込まれてきた慶喜にとって、その天皇家が自分を朝敵と見做して攻めてくると知った際の絶望と恐怖は、想像を超えるものがあったでしょう。例えれば、敬虔なキリスト教徒に、十字軍が向かってくるようなものではないでしょうか。であればこそ、慶喜が朝敵の汚名を恐れずに戦うことは期待できません。錦旗が揚がった時に、慶喜の「裏切り」は、必然だったとも言えます。
人材の淘汰を救った慶喜
水戸藩は幕末史において大老・井伊直弼暗殺や天狗党の乱など、薩摩・長州に並び尊王攘夷の急先鋒として名を馳せました。水戸藩から始まった尊王思想が、幕府の屋台骨を揺るがしたのです。その後始末を、斉昭の子である慶喜がする破目になったのは歴史の皮肉としか言えません。
しかし、尊王思想を叩きこまれた将軍・慶喜だったからこそ、幕府軍と新政府軍の全面戦争を避けるという決断ができたのです。新政府軍側には、幕臣のように海外に詳しい人材や日本全土を統治する実務を知る人材はほとんどいませんでした。結果として、明治新政府の実務を担当する役人には、多くの幕臣が就くことになったのです。旧幕臣なくして、明治維新は不可能でした。慶喜の「裏切り者」としての振る舞いが、戦争による人材淘汰を回避したのです。慶喜は、汚名を被った「英雄」であったとも言えるのではないでしょうか。
(黒武者 因幡)
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