明治9(1876)年3月28日、廃刀令(帯刀禁止令)が出されました。正式名は「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件」です。これによって軍人・警察と閣僚たちが正装するとき以外の帯刀が禁じられました。さて、これまで当たり前のように刀を帯びていた士族たちはどうなったのでしょうか。廃刀令の意味と社会への影響について見ていきましょう。
廃刀令ってどんなもの?
廃刀令により、大礼服を着た時と、軍人・警察官などの制服着用時以外は帯刀することが禁じられました。ちなみに、大礼服とは大日本帝国下で閣僚などがしている正装です。勲章がたくさんついているあの豪華な服ですね。
これ以外で刀を持てないということは、士族たちは刀を帯びてはいけないということでした。つまりは、士族の特権の廃止です。
明治政府の政策により、国民皆兵制度が導入されました。全国民から徴兵し軍隊を造ることで、士族の必要性がなくなったわけです。警察もできましたし、個人が刀を持つ理由もなくなってしまったのですね。
また、士族は明治政府から「禄」を支給され、いわゆる年金生活のような経済特権を持っていたのですが、これが政府財政を圧迫していたので廃止されてしまいました。
士族の「心」が奪われる
豊臣秀吉が行ったのは刀狩でしたが、これは廃刀令とは意味合いの違うものでした。
秀吉は兵農分離を進め、農業生産を高めるためにも「農民の武器所有を禁じた」わけですが、廃刀令とは、「士族の社会的身分の剥奪」でした。
こうした状況下で、士族たちはプライドでありよりどころだった刀を奪われ、自分たちのアイデンティティーを失っていったのです。
廃刀令が出されると、商売などに手を出して生計を立てようとする者たちもいましたが、すべてがうまくいくわけではありませんでした。そのため、社会に適応できない旧士族たちも出てきてしまったのです。「士族の商法」と揶揄されました。
一方、廃刀令に真っ向から反発した者たちは、刀を袋に入れて持ち歩いたり、肩に担いで歩いたりしました。帯刀とは腰に刀を下げることであったため、それなら肩に担げばよかろうということだったのですね。
各地で相次ぐ士族反乱
廃刀令に強く反発した士族たちが、明治政府に対して起こした反乱を「士族反乱」と言います。
口火を切ったのは、明治9(1876)年に熊本で起きた神風連の乱でした。
廃刀令に反発した士族たちによる「敬神党(反対派には神風連と呼ばれた)」が、熊本鎮台を襲撃したのです。すぐに鎮圧されましたが、これは各地に飛び火していきました。
次に福岡で秋月の乱が起き、相次いで山口では旧参議の前原一誠による萩の乱が起きたのです。
そして、最大の士族反乱が明治10(1877)年に起きた西南戦争でした。
総大将が明治政府の元勲・西郷隆盛だったことに世の中は衝撃を受けましたが、これもまた士族の不満が爆発した結果だったのです。
西郷は下野した後に鹿児島で私学校を造り、不平を持つ士族たちを統率・教育していたのですが、彼らが暴発してしまったために総大将として立たざるを得なくなったのですね。
結果として西郷はこの戦争で戦死し、明治政府にとっては大きな損失となりました。
しかし、明治政府の勝利によって新時代の完全なる幕開けとなり、旧体制の崩壊の証明となったのです。
「侍」として長い間特権を享受してきた士族たちにとって、刀を奪われるのは、プライドを打ち砕かれることであり、死と同義だったのだと察します。それに対して反乱を起こしたのは、仕方のない結果だったのかもしれません。社会体制を変えるのは、本当に難事だったのですね・・・。そして、今から約140年前まで刀を身に着けていたというのはそれほど昔ではないような。
(xiao)
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