真田信繁が大坂の陣で鮮烈に散った後、兄・信之(関ヶ原後に信幸から改名)は松代藩主となりました。後継ぎにも恵まれ、さてこれで楽に隠居生活・・・と思いきや、彼の人生の最晩年には、真田家を揺るがすお家騒動が待っていたのです。いったい、何が起きたというのでしょうか!?
信之の隠居生活に暗雲
上田から松代へ加増移封された後、信之は明暦2(1656)年まで藩主の座にありました。なんとこの時90歳!この時代にしたら驚異的な長生きですね。
そして家督を二男・信政に譲りますが、わずか2年後にその信政は死去してしまうのです。信政の後継ぎは、たった2歳の六男・幸道でした。上の兄たちは故あって早逝しているなどしたため、幸道しかいなかったのです。
ところが、これに異議を唱えた者がいました。信之の庶長子である信吉の二男・信利です(信吉は正室の子ではなかったため信政が信之の後を継いでいた)。信利は信之の嫡流にあたる自分こそが藩主を継ぐにふさわしいと主張。すでに真田家では後継者を幸道だと幕府に届けていたのに、彼も自分が藩主になるのだと幕府に訴え出てしまったのです。
このままでは真田家分裂・・・90歳を超えてまさかこんなことに悩まされるとは、信之は思ってもみなかったことでしょうね。
真田家お家騒動、幕府の裁定は・・・
信之はもちろん幸道を藩主とするつもりでしたが、信利に加勢した人物が複数いました。彼の正室・松姫は土佐藩主・山内忠豊の娘だったため、土佐藩がまず味方となり、そして老中の酒井忠清、親戚筋の高力氏も信利側に付いたのです。
しかし、最終的に幕府が下した判断は、幸道を藩主とし、信之が後見を務めるというものでした。直系よりも嫡流の血を重視したということです。
不満げな信利に対しては、彼が所有していた沼田領を藩として独立させることにしました。これにより、松代藩は10万石、沼田藩3万石となったのです。
真田家に暗君出現!?
信利は幕府の裁定に不満があったのでしょう。与えられた沼田藩で検地を行うと、本当は3万石ほどしかないところに14万4000石を無理やり打ち出して幕府に報告してしまったのです。これでは領民に増税を強いることになってしまいます。
また、松代藩に対抗意識を燃やし、沼田城を5層もの大天守閣を擁する城に造り替え、江戸の沼田藩邸を松代藩邸に劣らぬ豪華なものに改築しました。
これによって重税が課せられた領民には、餓死者も出るほどだったと伝わっています。
忍耐の限界に達した領民の直訴により、信利の行状は幕府に知れることとなりました。加えて、沼田藩で幕府から請け負った材木の納入が遅れていたことも、心証を悪くしていました。
これによって信利は改易となり、奥平家へお預けとなったのです。息子たちも同様の処分を受け、沼田城は破却。いったん沼田藩は廃されて幕府領となるのです。
一方、松代藩を継いだ幸道は、藩主として江戸城普請や朝鮮通信使の饗応などのお役目をそつなくこなしました。71歳まで生き、信之ほどではありませんが長生きした方と言えるでしょう。側室の子である長兄・信就は事情があって後継から外されていたのですが、幸道は仲良く交流していたそうです。藩主としても器が大きかったのは、幸道だったかもしれませんね。
お家騒動はよくあることですが、真田家にもあったとは意外でしたね。
信之は幸道が藩主となって2年後に92歳で亡くなっていますが、最後の最後で心労極まったと思います。
大河ドラマ「真田丸」で、大泉洋さん演じる信之の「わしの人生はずっと耐える毎日だった」というセリフがありましたが、本当に耐えることの連続だったのかもしれませんね・・・。
(xiao)
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