【相手が悪かった…】あの戦国武将たちの初陣、成功と失敗

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初陣というのはある程度危険のない任務が常ではありましたが、一方でかなり厳しい状況での初陣となる者もいたようです。時には初陣が最後の戦となってしまったなんてことも・・・。今回は、戦国武将たちの初陣の成功例と失敗例を見ていきましょう。

毘沙門天は初陣でも毘沙門天だった!上杉謙信

「戦上手は最初から戦上手だった:上杉謙信」
「戦上手は最初から戦上手だった:上杉謙信」

上杉謙信がまだ長尾景虎と名乗っていた頃、越後の内情はとても不安定でした。
14歳で元服した謙信ですが、その翌年の天文13(1544)年には兄・長尾晴景の統治力を甘く見た豪族の謀反が起きます。それに対し謙信は、栃尾城に入り敵を迎え撃ちました。

謙信は兵を2つに分け、一方を敵本陣の背後から急襲させます。そして相手の混乱に乗じて、城内にいた本隊も突撃させて相手を壊滅させたのでした。その鮮やかな用兵は、謙信の名前をわずか15歳にして周辺諸国に轟かせたのです。この栃尾城の戦いで見事初陣を飾りました。

姫若子を鬼若子にした初陣!長宗我部元親

「22歳で花開いた戦の才能・長宗我部元親」
「22歳で花開いた戦の才能・長宗我部元親」

通常10代で経験することが多い初陣ですが、長宗我部元親は22歳ととても遅いものでした。永禄3(1560)年、土佐朝倉城主の本山氏を相手にした長浜の戦いでのことです。元親は父に従い初陣しました。

元親は柔和で軟弱とみなされており、周囲からは「姫若子」と揶揄されていました。出陣前になって家臣に槍の使い方を指導してもらったほどです。
ところが、戦が始まるなり元親は一変します。50騎を率いて敵中に切り込み、全体で70余りの首級を挙げました。元親自身も2人の騎馬武者を討ち取っています。しかも、父の制止を振り切って相手の支城に突入して奪取してしまったのです。
その変貌ぶりに皆が驚き、その後元親は「鬼若子」と呼ばれるようになりました。

元服前に初陣を飾ったレアケース・吉川元春

「若い頃は結構なうつけだったらしい吉川元春」
「若い頃は結構なうつけだったらしい吉川元春」

また、当時は元服してから初陣を飾るのが通例でしたが、毛利元就の息子・吉川元春は元服前に初陣を飾りました。天文9(1540)年、彼が12歳の時で、相手は侵攻してきた尼子晴久です。

父・元就は元服すらしていない元春の初陣には反対でした。しかし元春が強く志願したために認めることとなったのです。小学6年生くらいの年で戦に出たいと父親に志願・・・現代の私たちにはちょっと想像のつかない感覚ですよね。
以来、元春は多くの戦に参戦し、生涯不敗といわれています。12歳での初陣は、毛利家を支える屋台骨としての素地となったのでしょう。

初陣の相手が悪かった…徳川秀忠

「為政者としては優秀だった徳川秀忠」
「秀忠が上田攻めの本陣を構えた小諸城」

秀忠の初陣は、慶長5(1600)年の第二次上田合戦とされています。
石田三成挙兵の報を聞いた家康は東海道を進み、22歳の秀忠は3万8千の兵と共に東山道を進んで上田城に至ったわけです。

しかし相手は真田昌幸・信繁父子でした。いったん降伏すると見せかけて挑発してくる昌幸の老獪な策に翻弄され、苅田戦法を仕掛けるもその裏をかかれて城に誘い込まれこてんぱんにやられるなど、初陣には厳しい戦いでした。結局、上田城攻めは諦めて先を急ぎましたが、関ヶ原本戦には間に合わなかったのです。

初陣で血気にはやったがゆえの悲劇…森可隆

森可行(左)・可隆(右)の墓 (岐阜県可児市可成寺)
森可行(左)・可隆(右)の墓 (岐阜県可児市可成寺)

織田信長の家臣・森可成の長男である森可隆。森長可や森蘭丸の兄に当たります。
元亀元年(1570)、可隆は父に同行し、朝倉氏の越前敦賀・手筒山城を攻めます。彼は城に一番乗りを果たしますが、なんと深入りしすぎてしまい敵の反撃を受け、討死してしまいました。享年19歳、悲劇の初陣となってしまったのです。

佐々成政の息子・松千代丸も、13歳の初陣で流れ弾に当たって死亡しています。初陣と言っても十分に死のリスクはあったわけですから、初陣で大功を立てるというのは大変なことだったのですね。それを考えると、やっぱり上杉謙信はすごいなと思います。

(xiao)

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