【最後の将軍、慶喜の誕生秘話 Part.1】徳川慶喜は、なぜ一橋家に入ったのか?

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2020年9月15日(火)より、大河ドラマ「徳川慶喜」が、チャンネル銀河で放送される。今から22年前の1998年に放送され、本木雅弘が演じる慶喜の生涯を濃密に描き、大好評を博した作品だ。その放送にあたり、知っておきたい慶喜の秘密に、2回にわたって迫りたい。まず今回は誕生から幼少期のこと、一橋家へ養子入りして徳川慶喜と名乗るまでの流れをまとめてみた。その生い立ちを見ていると、のちの「大政奉還」や「戊辰戦争」とのつながりが、ぼんやり見えてくるかもしれない。

天保8年(1837)9月29日、徳川慶喜は江戸に生を受けた。この年は、3月に「大塩平八郎の乱」が、10月1日には徳川家慶(いえよし)が12代将軍に就任するなどの出来事があった。

慶喜が生まれたのは、江戸小石川にある水戸藩の上屋敷。場所は現在の東京ドーム(東京都文京区)のあたりで、今も大名庭園だった小石川後楽園が残る。昭和までは後楽園球場や遊園地があったところが、水戸藩邸の跡地であることはあまり広くは知られていない。

幼少期の慶喜 「徳川慶喜公伝」より(国立国会図書館蔵)

慶喜の父は、徳川御三家のひとつ、水戸藩の9代藩主・徳川斉昭(なりあき)である。斉昭は当時37歳。新たに生まれた七男に七郎麿(しちろうまろ)と名付けた。
七郎麿(以後、慶喜で統一)は七男だから、水戸藩の家督を継げる立場になかった。実際、慶喜が7歳になった弘化元年(1844)に家督を相続したのは長兄の慶篤(よしあつ)だった。

一歩間違えば、父・斉昭は藩主になれなかった?!

徳川斉昭と慶喜親子の像 偕楽園(茨城県水戸市)

ここで、父の斉昭のことにも触れておきたい。実は斉昭も嫡男ではなく三男坊だった。前藩主で彼の兄・斉脩(なりのぶ)が、文政12年(1829)に33歳の若さで急逝し、兄の養子に入るかたちで第9代藩主に就任したのである。

このとき、斉昭の藩主就任には、ひと騒動あった。斉脩の正室は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の娘(七女)峰姫だったが、二人の間には子がなかった。そこで未亡人となった峰姫の養女に、将軍家から男子を迎え、水戸藩主にしようという動きが起こる。そのプランの出どころは誰あろう、将軍・家斉自身だった。
家斉は「水戸藩に斉彊(なりかつ)を養子入りさせ、藩主にしよう」と考えたのである。斉彊とは家斉の息子(二十一男)。これが実現すれば幕府との結びつきが強まるため、当初は水戸藩の上層部の多くも賛同していた。

11代将軍・家斉。彼も徳川宗家の出身ではなく、一橋家の出身だった。(シーボルト画)

ところがである。「水戸藩の家督は水戸徳川家の者が継ぐべき。それは前藩主の弟君である斉昭様しかいない!」と反対の意見が噴出する。この斉昭派40名あまりの藩士たちが江戸城へ詰めかけ、直訴に出るという騒動にまで発展した。

騒動のさなか、斉脩の遺書が見つかり、それに従うかたちで斉昭が水戸藩の家督を継いだ。もし、このとき斉昭が水戸藩主にならなければ、将軍・慶喜はこの世に生まれなかったかもしれないのだ。

「晩婚夫婦」の間に生まれた末っ子

斉昭は藩主となった翌文政13年、皇族の有栖川宮(ありすがわのみや)家から吉子(よしこ)を正室に迎えた。織仁親王(おりひとしんのう)の第12王女であり末っ娘だったが、すでに27歳、当時としてはかなりの晩婚といえた。
それを本人も自覚していたのか、吉子は嫁ぎ先で義理の母となった峰姫に対し「私は年齢が高く、子供を産むことは無理かもしれないから、斉昭様に側室をつけてほしい」と言ったという。

徳川斉昭と吉子夫婦 徳川慶喜公伝より(国立国会図書館蔵)

だが、そんな心配をよそに斉昭は吉子のもとに通い続けた。結婚翌年の天保3年(1832)には長男・慶篤が誕生。さらに二男の二郎麿、五女の以以姫、七男の慶喜と、三男一女の子宝に恵まれた。慶喜は吉子33歳のころの子だ。そのほかにも斉昭には多くの側室との間にも子がおり、生涯になんと37人もの子をもうけている。

慶喜の母・吉子は賢妻と評判高く、和歌や書に長けたほか、薙刀もたしなんだという。庭に出てきた蛇を、自分で打ち殺して退治するという逸話が残るなど、豪気な女性であった。

慶喜の上方逃亡は、母の存在も関係していた?

大河ドラマ「徳川慶喜」より ©NHK

少し先の話になるが、慶喜は「鳥羽伏見の戦い」で大坂城からひそかに敵前逃亡し、旧幕府軍敗退の要因をつくった。これは水戸学の教えにならい、朝廷に歯向かいたくなかったからといわれる。そのほかの理由に、この母・吉子が皇族の出身であったこともあるのではなかろうか。
慶喜が幼少期から習った水戸学は、中国の朱子学(儒学)の影響を強く受けたもので「尊王論」を中核とし、また「親孝行こそ最大の美徳」とされていた。この影響が、慶喜の尊皇思想を根深くしていたと考えられよう。しかも戊辰戦争で東征大総督として官軍を率いた熾仁親王(たるひとしんのう)は、吉子の父・織仁親王の曾孫にあたる人物だった。

さて、そんな情勢下のもとに生まれた慶喜だが、生後7ヶ月で江戸から国許の水戸城へ移され、そこで養育されることとなる。母親の顔も知らぬまま幼少期を過ごしたのである。これは「江戸の華美な風俗に馴染ませぬよう」という水戸藩の教育方針でもあった。

英才教育で「水戸学」を叩きこまれ、一橋家へ

水戸に現存する旧弘道館の建物

慶喜が5歳になったころ、水戸に弘道館という藩校ができた。藩主・斉昭が推進した藩政改革の一環で創設され「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」などが建学の精神として掲げられた。先の尊王論や儒学を基礎とした水戸学の教育機関である。
弘道館では藩士およびその子弟が学び、15歳から40歳まで就学が義務づけられたが、慶喜は5歳から弘道館で教育を受けた。

学問の師は初代教授頭取の会沢正志斎(あいざわ せいしさい)。長州の吉田松陰や久留米藩の真木保臣(まき やすおみ)が会沢に会うために水戸を訪れたというほどの学者であった。松陰は「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す……」と『東北遊日記』に記している。

そんな英才教育を受けた慶喜の英邁ぶりは江戸にもよく聞こえていたようだ。弘化4年(1847)、11歳になった慶喜は「一橋家を相続せよ」との命に従い、水戸を出て、生まれて以来の江戸に入る。そして以後「徳川慶喜」と名乗るのである。

将軍家慶は、なぜ慶喜に期待をかけたのか?

この養子入りは12代将軍・家慶の意向であったという。家慶から老中・阿部正弘を通じて水戸藩へ命令が下り、それを受けての一橋家入りであった。
水戸徳川家は御三家のひとつだが、他の二家(尾張徳川家、紀伊徳川家)よりも家格が一段下の扱いだった。よって、将軍家(徳川宗家)に世継ぎができない場合、尾張藩か紀州藩、あるいは御三卿(田安家、清水家、一橋家)から男子を迎えて将軍に据えるという取り決めがあった。水戸藩はその対象ではなかったから、慶喜は将来の将軍候補になれるよう、格別な計らいとして一橋家へ入ったことになる。

なぜ、家慶はそれほどまでに慶喜に期待したのか。それはまず、父である家斉が一橋家の生まれであり、そこから将軍家に養子入りして11代将軍になったという経緯があるからだ。家慶には14人もの男子がいながら、成人したのは四男の家定だけ。家定は病弱で、一説によれば脳性麻痺をわずらっていたという。家定を世継ぎにするのはまだ良いとしても、その先がどうなるのか、将軍家の将来を案じていたのだろう。「慶喜」の一字の「慶」は、家慶が与えたもの。そこからも期待の大きさが伺えよう。

次回は「御三家」と「御三卿」について、もう少し踏み込んで解説したい。

文・上永哲矢


大河ドラマ「徳川慶喜」
放送日時:2020年9月15日(火)スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/detail/tokugawa_yoshinobu/
出演:本木雅弘(徳川慶喜)、菅原文太(徳川斉昭)、石田ひかり(美賀)、大原麗子(れん/語り)、堺正章(新門辰五郎) ほか
制作:1998年/全49話

画像:大河ドラマ「徳川慶喜」©NHK


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