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【 徳川家最大のタブー 】家康の生涯最悪の決断「信康事件」の真相

天正7年(1579)8月、徳川家康は苦悩の大事件に直面します。天下布武を目指す織田信長の命令のもと、武田に内通した疑いで、家康が嫡男・信康を切腹させたといわれる「信康事件」は、これまで謀反説・謀略説・冤罪説など、様々な説が唱えられてきました。10月19日(木)に放送のNHK BSプレミアム「英雄たちの選択」では、織田・武田・上杉などの戦国大名の間で、生き残りをかけ苦悩する若き日の家康父子に迫られた、生涯最悪の決断「信康事件」を軸に、諸説飛び交う事件の実像に迫ります。

松平信康
(勝蓮寺蔵)
©︎NHK

勇猛果敢だった信康

松平信康は、永禄2年(1559)、松平元康(後の徳川家康)の長男として駿府で生まれます。母は今川義元の姪・築山殿です。
永禄5年(1562)、家康と織田信長による清洲同盟が成立。その5年後、信康は信長の娘である徳姫と結婚します。この時、共にわずか9歳。形式とはいえ夫婦となり、岡崎城で暮らすことになります。

元亀元年(1570)、信康は正式に岡崎城主となる(愛知県岡崎市)。
写真提供:岡崎市

若い頃から勇猛果敢だった信康は、天正元年(1573)、14歳で初陣。天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは、徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いで、いくつもの軍功を挙げました。

しかし、天正7年(1579)8月3日、家康が岡崎城を訪れ、翌日に信康は岡崎城から大浜城に移されます。その後、遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹。享年21(満20歳)という若さでした。

信康が切腹をとげた二俣城(静岡県浜松市)。
写真提供:浜松観光コンベンションビューロー

家康は関ヶ原の合戦で三男秀忠率いる別働隊が遅れた時、「信康がいれば!」と思わず口にしたといいます。

信康事件の通説を覆す!?

信康の切腹については従来、宿敵武田家との内通を疑った織田信長からの命令で行われたとされてきました。

信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったのため、父・信長に、信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通したと記した手紙を、徳川家の重臣・酒井忠次に託します。忠次は信康をまったく庇わず、すべて事実であると認めたため、信長は家康に信康の切腹を要求します。

徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあったといいます。しかし家康は、徳川家の重臣がすでに認めてしまった以上、それぐらいのことでは信長の怒りを反らすことはできないと判断し、信康の処断を決断。8月29日、まずは築山殿を二俣城への護送中に、徳川家家臣が殺害。さらに9月15日、幽閉先の二俣城にいた信康に切腹を命じた、というものです。

信康を祀る清瀧寺(静岡県浜松市)。信康死後の翌年、家康が霊廟と位牌堂を建立。

しかし、不思議なことに信長の一代記「信長公記」には事件の記述はありません。さらに、近年の研究では、徳川家臣団の分裂を避けるため、家康自身のやむを得ない選択だったことがわかってきたのです。

織田も武田も領土を着々と広げる中、生き残りをめぐって意見が割れる徳川家。織田のもとで生きるか、武田と組むか。浜松の家康と岡崎の信康、二人の意見対立はそれぞれの家臣団を巻き込み、父が子を殺す悲劇に……。

徳川家最大のタブーとなった事件の真相とは。NHK BSプレミアム【英雄たちの選択】「家康、生涯最悪の決断〜“信康事件の真相にせまる〜”」は、10月19日(木)20時からの放送です。お見逃しなく!

BSプレミアム【英雄たちの選択】
「家康、生涯最悪の決断〜“信康事件の真相にせまる〜”」

放送日時:2017年10月19日(木)20:00~20:59
司会:磯田道史、渡邊佐和子
出演:尾木直樹、小和田哲男、飯田泰之
語り:松重豊
公式HP:英雄たちの選択
http://www4.nhk.or.jp/heroes/

(編集部)

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