歴史上の偉大なお姉さんのひとり、坂本龍馬の姉、乙女。体格が大きかったことから坂本家の仁王と呼ばれ、亡き母に代わって弱虫だった龍馬を鍛えました。龍馬から乙女に宛てた手紙を見ても、龍馬が頼りにしていただろうことが想像されます。今回はそんな日本一頼れるお姉さん、坂本乙女についてご紹介します。
龍馬の母親代わりだった乙女
龍馬には兄・権平と3人の姉(千鶴・栄・乙女)がいました。権平や千鶴たちとは親子ほども歳が離れていたため、3歳上の乙女とはよく遊んでいたそうです。ちなみに本来の名前は留(とめ)で、「乙女(をとめ)」は「お留」の当て字になります。
身長5尺8寸(約174cm)、体重30貫(約112kg)という、当時はもちろん、現代でも大柄といえる乙女。性格もからりとしていて男勝り、泣き虫だった龍馬がまわりの子どもたちにいじめられ、泣いて帰ってくるのを「それでも男かね!」と悔しがったそうです。
炊事、洗濯、裁縫などは苦手だったようですが、学問や武芸、絵を描くことが好きだったそう。とりわけ遊芸は得意で、三味線や舞踊、謡曲、義太夫までこなしたとか。
母の幸が弘化3年(1846)に亡くなると、龍馬の母親代わりをつとめます。剣術や馬術などの武芸から水練、和歌や書道などを教え、龍馬が患っていた夜尿症まで治してしまったそうです。そんなお姉さんのおかげで龍馬は丈夫に育ちます。
毛ぶたが飛んだ???
それは乙女と龍馬が継母の実家・川島家に遊びにいった時のこと。川島家の長女・喜久に長刀の稽古をつけていた乙女が、長刀を振り回した拍子に乙女の毛ぶたが飛んでしまうハプニングがあったとか。毛ぶたとは今でいうヘアピースのようなもので、乙女は髪が薄かったそうです。そんな状況でも、乙女は慌てることなく、「毛ぶたが飛んだきに」と言って、髪をなおしてから稽古を再開したといわれています。
また、藩主が馬に乗って駆ける武士たちを観覧する、土佐藩の正月行事「お馭初め」では、幕末になって掟がゆるみ、武士だけでなく医者や学者も参加を許されたのを機に、乙女も参加したなんていう逸話まであります。
そんな乙女に縁談があったのは、安政3年(1856)。お相手は典医の岡上樹庵です。当時の結婚適齢期が14〜5歳だったことを考えると、20代も半ばの乙女は晩婚だったようです。結婚して赦太郎と菊栄をもうけますが、慶応3年(1867)に離婚し、実家に戻ります。原因ははっきりしていませんが、家風の違い、夫の暴力や浮気ともいわれています。
龍馬のよき理解者
龍馬の手紙は現在140通余り確認されていますが、その中で最も多いのは乙女宛です。
特に有名なのは、「今一度日本をせんたくいたし申候」の手紙ですが、お龍と共に刀傷を癒すため鹿児島へ訪れた時の手紙や、勝海舟の門人となり、可愛がってもらっていることを綴った通称「エヘンの手紙」と呼ばれるものなど、重要な出来事は乙女に伝えています。龍馬にとって乙女は、いちばんの理解者だったのかもしれません。
そして慶應3年(1867)11月15日、乙女は暗殺という形で、大切な弟を失います。それから12年後の明治12年(1879)、乙女は壊血病にかかって亡くなりました。晩年は独と改名し、のちに北海道北見市の開拓に従事する坂本直寛と共に暮らしていました。
龍馬が亡くなった後、坂本家に身を寄せたお龍とは不仲だったといわれていましたが、最近の史料では、乙女はお龍に対しても親身に接していたことが明らかになっています。龍馬が頼ったお姉さんなら、そのほうが想像つきますよね。
そんな偉大なお姉さんだったからこそ、龍馬が時代を動かすまでの人に育ったのかもしれません。
(編集部)
参考文献
阿井景子『龍馬と八人の女性』(ちくま文庫)
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