【戦国のエリート部隊】若き前田利家も!戦場の華・母衣武者とは

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【戦国のエリート部隊】若き前田利家も!戦場の華・母衣武者とは

戦国時代の戦を描いた絵を見てみると、大将の側にある様々な馬印や旗印、兵が背中に指している旗指物など、隊を象徴する目印が見られます。
こうした印を身に付けることは、自分の居場所を知らせると同時に、敵の攻撃が自分に向かうことも考えられました。
それも覚悟で、戦場の華として活躍した武者がいたのをご存知でしょうか。
エリートの中のエリート、戦場で異彩を放った「母衣武者」についてご紹介しましょう。

そもそも「母衣(ほろ)」って何?

「母衣武者」
「母衣武者」

母衣とは、矢や石を避けるために身に着けた、甲冑の補助的な役割を果たす武具の一種です。
兜や鎧の背中に幅広の絹の布を挟んで、風を利用して膨らませます。なので、一見すると風船を背負っているようでとても目立ちます。

母衣は武士の七つ道具(具足・刀・太刀・矢・弓・母衣・兜)のひとつに数えられており、起源は古代に遡るとても由緒のある武具でした。

母衣の歴史

「室町時代に使われた母衣の骨組み」
「室町時代に使われた母衣の骨組み」

古代の母衣は戦袍として全身を覆うもので、防寒の意味合いもありましたが、母衣が一般化してくる平安末期になると、前述の通り兜や鎧の背中に付けて、首や手の甲に紐で結ぶような形になりました。
風で膨らむと、背後からの矢を受けにくくなったそうです。弓矢が主体だったこの頃の戦闘には重宝されたのでしょうね。

室町時代になると、名乗りを上げて戦う一対一の騎馬戦から、集団戦に移行します。
それに伴い、母衣は実用性よりも見栄えが重視されるようになりました。
母衣の中に鯨の髭や竹で作った骨を入れ、風をはらまなくても膨らんだ状態になるようにしたのです。それによって自分の存在を常に示すことができるようになり、これが旗指物の一種となりました。

あの前田利家も!戦国時代の「母衣衆」は名誉の証

「金沢百万石まつり」の赤母衣衆(あかほろしゅう)
「金沢百万石まつり」の赤母衣衆(あかほろしゅう)

戦国大名は、優秀な部下や情報伝達を担う大事な使番に母衣をまとわせました。
母衣衆の一員となるのは大変名誉なことで、ごく限られたエリートにしか叶うことはなかったのです。

中でも有名なのは、織田信長の母衣衆でしょう。
黒母衣衆赤母衣衆があり、それぞれ10人ほどが在籍したようです。
赤母衣衆には若かりし日の前田利家がいたことでも知られています。今でも、前田家のお膝元の金沢で行われる「金沢百万石まつり」には、母衣衆が参加するそうですよ。

また、豊臣秀吉の黄母衣衆は信長の母衣衆に倣ったと言われています。

母衣武者としての覚悟

「母衣に首を包んで運ぶ様子」
「母衣に首を包んで運ぶ様子」

母衣武者となることは名誉でもある一方、死を覚悟して母衣をまとう者もいました。

戦国時代の兵法家・上泉信綱によって加筆された、中国兵家の書の翻訳「訓閲集」には、母衣武者について言及されている箇所があります。

それによると、母衣武者の首は獄門(さらし首)にかけてはならないとされています。
これは、その首が成仏できなくなるという理由でした。

また、武士は討死すると決めていれば母衣を付けることがあったそうです。
討ち取られた際、首は母衣で包み、丁重に扱われました。そのため、母衣の有無で死後の扱いには差が出たのです。
これを見ても、母衣武者が敵からも尊重される位の高さを持っていたことがわかりますね。

いかがでしたか?
ドラマなどでは母衣武者が登場することはあまりないと思いますが、当時はひときわ目立つ母衣武者が戦場を駆け廻っていたのでしょうね。
合戦図を見る機会があったら、ぜひ母衣武者を探してみて下さい!

(xiao)

参照元:
金沢百万石まつり http://100mangoku.net/

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