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【北海道の名付け親】探検家 松浦武四郎

北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第4弾は、「北海道」の名付け親である探検家・松浦武四郎(まつうら たけしろう)です。


松浦武四郎は19世紀の日本が生んだ北地探検家であり、明治維新後、蝦夷地を北海道と名づけたのは、この武四郎なのです。

16歳で初めての旅へ

松浦武四郎は1818年、三重県須川村に、裕福な農家の子として生まれました。幼い頃から伊勢神宮にお参りする旅人を見て育った武四郎は「自分もいつかは諸国を巡り、この目でいろいろな土地を見てみたい」という強い憧れを持っており、学問所でも各地の地理誌などを好んで読んだそうです。

そんな彼が初めて本格的な旅に出たのは16歳の時でした。それまで通った学問所をやめ、家族の反対を押し切って、家出をしてまで江戸へ向かいました。須川村から江戸までは102里半、400キロもありました。武四郎は健脚の持ち主で、この400キロの道のりを、山2つ越えたにもかかわらず、わずか13日間で歩いたそうです。

江戸に着いてからは、奉公先を見つけしばらく働きますが、親の許可なく江戸にでてきたことがわかり、解雇されてしまいます。故郷へ戻った武四郎に、父親は「農民なら農民らしく、身分相応に生きろ」と言いました。それに対し武四郎は、自分の胸に秘めていた熱い思いをはきだしました。

「庶民の子が名を立てるなどとは途方もないことだと思うでしょうが、毎日食べるご飯や着る物、住む家は全て庶民の手で作ったものです。庶民の力なくしてどうしてこの世が回りましょうか。私は庶民の子として、これからは諸国の動きを知りたいのです。旅には生きた学問があります。人が人を知らずして、なんで人の道をまっとうできましょうか」

思いがけず大人になっている武四郎に対し父親は、「旅に出るといってもまだ17歳の若者。2、3ヶ月もすれば戻ってくるだろう」と、二度目の旅を許しました。しかし、武四郎が再び故郷の地を踏んだのはそれから10年後のことであり、両親に会うことは二度となかったのです。

蝦夷地の探検へ向かう

故郷を離れてからは、四国八十八ヶ所巡礼をはじめ、ひたすら諸国巡礼を楽しみました。
その中で、長崎を旅している時に出会った老人から心を激しく揺さぶられる話を聞きました。

「武四郎さん、あなたは蝦夷地がロシアに狙われていることをご存知ですかな」
「ロシアの兵が略奪を試みたということは聞いたことがありますが」
「それがいよいよ危ない。幕府が蝦夷地の経営に本腰を入れ始めたといっても、防備は薄く、地形もまだはっきりしないありさまなのじゃ」
「いったいどうなるのでしょう、蝦夷地は・・・」
「蝦夷地ばかりではありませんな。日本全てが危ない」

老人の言葉に衝撃を受けた武四郎は、蝦夷地の地理を詳しく調べる人物が必要だと、自らの費用で、蝦夷地探検に乗り出したのです。1840年、武四郎22歳の決意でした。

まず、最南端の松前に降り立った武四郎は、旅人の取り調べに厳しい松前藩の目を逃れるため、わざわざ江差の人別帳に自分の籍を入れて、東蝦夷地をまわりました。内陸部の地形を極めるために探検の折々には、山脈、水脈、道路、集落などの位置を綿密に絵図にするとともに、アイヌ民族の生活、人柄、習慣、言語に至るまでを正確に記録することに努力をはらいました。そのなかで武四郎は、アイヌ民族を知るために、彼らと同じ火で煮炊きし、同じものを食べ、またある時は一枚の熊の毛皮にくるまって、厳しい冬を耐えてきました。こうした武四郎の行いは、アイヌ民族にも好感を持って迎えられるようになったのです。17歳の時、父親に向かって一生懸命言った言葉、「人が人を知らずして、何で人の道をまっとうできましょうか」武四郎は見事に実践に移したのです。

松浦武四郎 宿営の地(美深町恩根内)

そして2年後には樺太探検にも出発。樺太が独立した島であることは、すでにこれより40年前、間宮林蔵の探検で確かめられていましたが、その実情はまだ世の中に知られていませんでした。

武四郎の情熱的な冒険心は留まることを知らず、さらにその3年後には、国後、色丹、択捉諸島をまわりました。10年間という長い年月をかけて、北海道全域をその足で歩き回った武四郎は、自ら調べた全ての情報をまとめました。それが、『蝦夷大概図』というものでした。この地図こそ、わが国で最初の北海道全図なのです。蝦夷大概図は、自筆は残っていませんが、印刷されたものは北海道大学の図書館で見ることができます。

しかし、松前藩は、武四郎のような一介の庶民が「蝦夷通」として名をあげ、地図までも作ったことを「生意気で面白くない」とこの苦労の地図を全く認めませんでした。

さらに、江戸の学者からも、「身分も学問もない者が蝦夷地のことをとやかく書き著すなど、分をわきまえぬものだ」という声があがりました。が、武四郎は全て、自分の目で確かめた情報であることに自信を持ち、「これを多くの人に伝えていかねば明日の日本はない」と信念を持って、筆を執り続けたのです。

そして、翌年には樺太、千鳥の地図を完成させ、幕府に献上しました。幕府は武四郎の作った地図の綿密さに驚きました。ますますの信頼を得た武四郎は、1857年、39歳の時、幕府の命令により蝦夷地の山川の地理を調べ、新しい道を切り開く場所の見立てを行い、それらの結果を地図や文献として完成させました。これらは後に開拓使の内陸調査の文献となり、これをもとに北海道はどんどん発展の兆しを見せていったのです。

「蝦夷地」から「北海道」へ

松浦武四郎は明治維新により、明治政府に蝦夷地開拓御用掛としてつかえ、明治2年、開拓使が正式に発足すると「幕府時代からの蝦夷通」として、51歳で、開拓判官という大役を与えられたのです。開拓使発足後9日目に、武四郎は、開拓長官の鍋島直正に「道名之儀につき意見書」という蝦夷の名称改正の候補名を提出しました。

この時蝦夷地に代わる新しい名称として、6つの候補をあげました。日高に見る道「日高見道」、海に北「海北道」、海の島「海島道」、「東北道」「千島道」そして北に加える、にんべんの伊で「北加伊道」。この中でとりあげられたのは「北加伊道」でした。これは、武四郎の説明によると、「アイヌ民族は、自分たちの国をカイと呼び、また互いをカイノーと呼び合っていた」ということです。

「道名之儀につき意見書」を提出する前、武四郎は幕府の箱館奉行所の依頼で、北海道各地のアイヌ語の地名を訳し、和風の名称を考えたことがありました。しかし、新しい地名に漢字をあてたこの試みは、現地ではさっぱり意味が通じないとわかり、失敗に終わりました。アイヌ民族が伝える地名は、地形や過去の伝説・歴史、それにその土地の生産物などに関係していたからです。

武四郎も次第に、アイヌ語の地名はその土地の風土と知り、地理の上でも貴重な文化遺産であることに気付きました。例えば、現在の「江差」をアイヌ民族は「エサウシ」とか「エサウシイ」といいました。これは、「山が海岸まで出ている所」という意味です。こうしたことから、地名は、アイヌ民族の発音をふまえて漢字を当てるのが一番良いと判断したのです。

道内の地名には、アイヌ語をそのまま使ったり取り入れたりしているものが多いことはよく知られていますが、北海道という都道府県名自体が、アイヌ語からきていることは、現在知っている人はほとんどいないでしょう。アイヌ民族の風習や言語を熱心に調べ、アイヌ民族の心を心底から理解していた武四郎だからこそ、この「北加伊道」という名を提案できたのです。

こうして、「道名乃儀につき意見書」は政府に受け入れられ、蝦夷地は北海道と改名、武四郎は北海道の名付け親としても、後世に名を残しました。

晩年まで続いた冒険心

ところが、そのわずか半年後、武四郎は開拓判官を突然辞職しました。開拓判官といえば、現代でいう大臣の下の次官に匹敵する高級官僚で、民間人が簡単に昇れる位ではありませんでした。北海道に、大きなロマンを持っていたにもかかわらず、彼が身を引いた理由は、政府の、アイヌ民族へ対する仕打ちでした。「明治維新により世の中が近代化しても、役人は北海道の先住民族であるアイヌの人々の存在を無視し、彼らから強盗のように物を奪い取る。それを開拓使の高級官僚は見て見ぬふりをするどころか、彼らもまたその私腹にあやかる。これでは幕府時代と少しも違わぬではないか」という無念の気持ちから、武四郎は開拓判官の職を自らなげうったのです。

その後、年老いても武四郎の冒険心はうせることなく、60歳を過ぎて再び旅に出、東海道から伊勢にでて、京都、吉野を歩きました。また、70歳にして富士の登山に成功しています。翌年、71歳で武四郎は亡くなりましたが、その生涯にわたっての記録・文書・日記・書簡・絵図など、著作物の数は膨大で、240種にものぼるということです。

現在松浦武四郎の銅像は、釧路市幣舞町のぬさまい公園に、道案内のアイヌの人と共に、探検記をメモしている姿で建っています。彼は生前、釧路に3回立ち寄っていることから、この銅像は、3度目の1858年からちょうど100年目にあたる、昭和33年に建てられました。

「旅には生きた学問があります。人が人を知らずして、なんで人の道をまっとうできましょうか」松浦武四郎、17歳の言葉は、現代を生きる私達に大きな示唆を与えています。

 

(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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