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【やってみなはれ】サントリーを育んだ鳥井信治郎のチャレンジ精神とは

【やってみなはれ】サントリーを育んだ鳥井信治郎のチャレンジ精神とは

2018年は明治元年から150年となる節目の年。これを記念し、明治時代に活躍した起業家たちを紹介する連載「明治の企業家列伝」がスタート。第2回は、サントリーの創業者・鳥井信治郎です。


数年前に人気が復活し、酒席の定番となったハイボール。海外で飲まれていたハイボールが日本に広まったのは、サントリーがウイスキーの販売のために日本に紹介したことがきっかけです。いまや酒類だけでなく飲料メーカーとしても一大企業となったサントリー。今回は、ワイン、ウイスキーの国内生産に果敢に挑み、日本の酒類文化の礎を築いた鳥井信治郎(1879年~1962年)の生涯にせまります。

日本人の味覚に合うワインを目指して

現在のサントリーホールディングス本社

2014年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝をモデルにした物語でした。このなかで、主人公の事業を応援する事業家として登場した鴨居欣次郎。堤真一さん演じるこの大阪商人のモデルが鳥井信治郎です。登場時にはすでに実業家としてできあがっていました。さて、鳥井信治郎はどのような生い立ちなのしょうか。

鳥井信治郎が生まれたのは1878年(明治11年)。大阪市東区釣鐘町の両替商の次男坊として育ちました。実家はその後米屋に転業しています。高等小学校には4年も飛び級して入学するほどの賢さと勢いを見せた彼は、13歳になると家を出て、薬種問屋小西儀助商店(現在は木工用ボンドなどで知られるコニシ)で奉公するように。ここでの調合経験が、のちの酒類製造に役立ったと言われています。その後、絵具染料問屋小西勘之助商店を経て、1899年(明治22年)、20歳の時に独立して「鳥井商店」を開業しました。

自分で事業を始めた信治郎は、洋酒(葡萄酒)の輸入販売を始めます。かつてスペイン人の家でごちそうになったワインのおいしさが心に残っており、それを日本で広めたいと思っていたからでした。しかし、輸入したワインはいずれも日本人の味覚に合わず、売れ行きは芳しくありません。そんな折、再度かつてのスペイン人からワインをふるまわれる機会が訪れました。そのワインは甘いポートワイン。この甘いワインに活路を見出した信治郎は1906年(明治39年)に屋号を「寿屋洋酒店」に改名、日本人の口に合うポートワインの製造に乗り出します。

赤玉ポートワインが大ヒット!物議をかもしたヌードポスターも奏功!

赤玉ポートワインのポスター

信治郎は試行錯誤を繰り返しましたが、なかなか思うような味にはなりませんでした。ようやくスペイン産ワインをベースにしたワインが完成、販売を開始したのは、1907年(明治40年)4月1日のこと。苦心して完成したワインは「赤玉ポートワイン」と名付けられました。「赤玉」とは、日の丸であり、太陽であり、そのワインの美しい赤でもあります。信治郎はワインの色にもこだわったのです。

精魂込めて作られた赤玉ポートワインは、当時米4升分ほどの値段で、かなりの高値でした。しかし、当時酒類ではめずらしかった新聞への広告掲載や景品の配布、販売員がそろいのはっぴを着用するなど、画期的な宣伝活動(キャンペーン)が功を奏しました。めずらしさも手伝って赤玉ポートワインは売れに売れました。売り上げの増加にともなって1921年(大正10年)には寿屋を株式会社寿屋として株式会社化しています。

1922(大正11)年、宣伝部長の片岡敏郎は思い切った策に出ます。ワインの宣伝のために結成された「赤玉楽劇座」のプリマドンナ・松島栄美子を起用、当時ではめずらしかったヌードポスターを制作したのです。ヌードとはいっても、デコルテを全開にした程度で、現在ではめずらしくない露出度ですが、当時の日本では大変な衝撃であり、赤玉ポートワインの知名度も一気上昇。撮影のために松島は6日間も写真館に缶詰めにされたといいます。セピア色の中に、赤玉ポートワインだけは赤く光るポスター。赤は信治郎の美しいワインへのこだわりを表し、宣伝美術としてもすぐれたものでした。

当時としては斬新な赤玉ポートワインのブランディングやPR、マーケティングの手法は、その後も引き継がれていくこととなります。ポートワインのヌードポスターには「美味」のほかに「滋養」の文字が見られます。これは当時栄養学が普及しつつあったことから取り入れられたもの。信治郎の進取性のあらわれだといえるでしょう。新聞広告にも「滋養になる 一番よき 天然甘味 薬用葡萄酒!! 赤玉ポートワイン」の文字が踊ります。当時のライフスタイルの変化、モダニズムなどともマッチし、日本のワイン文化は、信治郎の手から広がっていったのです。

ウイスキー製造の模索 「マッサン」との出会いと別れ

サントリー山崎蒸留所

赤玉ポートワインで日本でのワイン生産に成功した信治郎。次に試みたのは、日本でのウイスキー生産でした。1923年(大正12年)、スコットランドでウイスキーの蒸留を学んだ経験を持つ竹鶴政孝を呼び寄せると、大阪府島本村山崎にウイスキー蒸留所(山崎蒸溜所)を建て、国産ウイスキーの製造を開始します。この背景には、洋酒の輸入を削減したいという志がありました。山崎は竹鶴の思うウイスキーづくりに適した土地ではありませんでした。しかし、信治郎の「消費者が見学できる場所を」との思いに押し切られ、この地に蒸留所がつくられたのです。

1929年(昭和4年)に国産ウイスキー第1号「サントリー白札」(現在のサントリーホワイト)が発売されます。ヌードポスターを企画した片岡敏郎による「醒めよ人! すでに舶来盲信の時代は去れり 酔わずや人 我に國産至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!」のコピーとともに大々的に発売された白札でしたが、ピート臭(煙臭さ)が強くて受け入れられず、返品が相次ぎました。初の国産ウイスキーは失敗に終わってしまったのです。ブレンドを変えた廉価版「サントリー赤札」(現在のサントリーレッド)も1930年(昭和5年)に発売しましたがこちらも失敗、赤札は製造中止となります。寿屋は経営不振に陥り、いくつかの事業を手放さねばならないほどでした。

失敗の中で、スコッチにこだわった竹鶴と信治郎との考え方のずれが次第に明らかになってゆきました。また、竹鶴から信治郎の長男・吉太郎へのウイスキー製造法の伝授がある程度終わったこともあり、竹鶴は1934年(昭和9年)に寿屋を辞し、北海道の余市へと去ります。年俸4千円という当時では破格の待遇で迎えた竹鶴の旅立ちを、信治郎はあたたかく見送りました。偏屈なところもありましたが、「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」と挑戦を繰り返す信治郎の精神は、誰に対しても平等に発揮されたのです。

ウイスキー製造の成功 ローヤルの初代マスターブレンダーとなる

竹鶴が去った後も、吉太郎を中心に据え、ウイスキーづくりは進められました。そして1937年(昭和12年)、のちに「角瓶」と呼ばれる「サントリーウヰスキー12年」を発売。熟成した山崎蒸留所の原酒によってつくられたウイスキーは、戦時体制下で輸入が禁じられたことともあいまって、順調に売れ行きを伸ばしました。「海軍指定品」となったことも好機となりました。軍用品となることで、戦時下でも原料の穀物の供給を得られることができたのです。この勢いに乗じ、1940年(昭和15年)には「オールド」を完成させましたが、こちらはぜいたく品とされたので流通にのせることはできず、ヒットしたのは戦後になってからです。

1940年(昭和15年)、鳥井家を深い悲しみが襲いました。長男・吉太郎の突然の死です。まだ33歳の若さでした。「片腕をもがれたと」嘆いた信治郎は、本社社屋なども空襲で失います。しかし、山崎工場の原酒は幸いにも戦火を逃れ無事でした。困難の中にあっても信治郎はあきらめず、戦後は進駐軍に種類を販売しながら、「大阪の鼻」と呼ばれた自らの手でウイスキーの製造を再開させます。

1960年(昭和35年)、初代マスターブレンダーとなった信治郎のすべてがこもったウイスキー「サントリーローヤル」が誕生。創業60周年を記念したプレミアムな製品で、香り・味・色が黄金比で配合された一品です。鳥井の名前から「酉」の字をかたどったボトル、鳥居に見立てた栓も印象的でした。ローヤルは最高級のウイスキーだったため、当初は高価で一般には行き渡りませんでしたが、酒税法の改正で値段が下がったことから、徐々に浸透していきました。

ローヤル発売の2年後の1962(昭和37年)、鳥井信治郎はワイン、そしてウイスキーの製造にすべてを捧げた生涯に幕を下ろします。83歳でした。ローヤルは信治郎の「遺作」となったのです。まわりを「やってみなはれ」と後押しし、自分は妥協を許さない信治郎の強い思いが、日本の酒類文化を大きく羽ばたかせたと言えるでしょう。

脈々と受け継がれる「やってみなはれ」の精神

サントリー山崎蒸溜所にある鳥井信治郎と佐治敬三の銅像

信治郎の後を継いだのは、次男の佐治敬三です。敬三は幼いころに母方の縁者の養子に入り佐治姓を名乗っていましたが、両親のもとで暮らし、信治郎の背中を見て育ちました。敬三は1963年(昭和38年)のビール発売を機に、社名を「サントリー」に変更しました。サントリーは「sun(太陽)」と「鳥井」を合わせたもので、太陽はかつて寿屋の象徴である赤玉でした。敬三は常に挑戦する企業であるために、武蔵野に工場をつくりビール事業に乗り出しました。亡き父の「やってみなはれ」の声が聞こえていたのかもしれません。

戦後間もない1946年(昭和21年)、信治郎は戦前に製造法を確立していた「トリスウイスキー」を発売しています。リーズナブルなウイスキーは、発売から10年ほどをかけて各地にチェーンバーである「トリスバー」「サントリーバー」がつくられるなど、庶民の楽しみをもたらすものに成長しました。トリスにまつわるものでよく知られているのが、1961年から始まった「トリスを飲んでハワイへ行こう」のキャンペーン。開高健(コピー)と柳原良平(イラスト)のコンビによる、「アンクルトリス」をメインとしたポップな広告は人気を博しました。そして、トリスといえば忘れられないのがハイボール。ウイスキーを一気に身近なものにしたといえるでしょう。また開高を編集長としたPR誌『洋酒文化』の発行など、ユニークなPR活動も信治郎の厳しくもあたたかな「やってみなはれ」があってこそ花開いたのではないでしょうか。

日本の酒類文化をリードし、食文化をリードしてきたサントリー。鳥井信治郎の挑戦心は、その基礎を築きました。そして「やってみはなれ」の姿勢は現在においても、会社の理念の一つとして、経営者のひとつのありかたとして、語り継がれているのです。

参考サイト:
サントリーの歴史(サントリー)
初代マスターブレンダー 鳥井信治郎「夢」の到達点(サントリー)
TORYS HISTORY トリスの歴史をご紹介(サントリー)
文献:
サン・アド編集、『サントリーの70年  1 やってみなはれ』『サントリーの70年  2 みとくんなはれ』(サントリー、1969年)
山口瞳、開高健著『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮社、2003年)

 

連載「明治の企業家列伝」
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