幕末期の会津藩を支えた西郷頼母(さいごうたのも)という人物をご存じでしょうか?大河ドラマ「八重の桜」で西田敏行さんが演じたことで知っている方もいるかもしれませんが、西郷というとやはり薩摩藩の西郷隆盛を思い浮かべる方が多いですよね。
今回は、幕末期に活躍した “もう一人の西郷”である頼母がどんな人生を歩んだのか、彼の生い立ちや会津戦争での悲劇、そして西郷隆盛との関係性について解説します。
会津藩筆頭家老として松平容保を支える
代々会津藩の筆頭家老をつとめてきた西郷家。頼母も家老として藩主・松平容保を支えていきますが、容保の京都守護職就任については反対の立場をとり続けました。
生い立ちから家老に就任するまで
頼母は会津藩家老・西郷近思(ちかもと)の長男として生まれました。西郷家は会津藩祖である保科正之の分家で、代々筆頭家老の家柄でもあります。
頼母は幼い頃から学問や剣術を学び、溝口派一刀流や甲州流軍学などを極めました。また、大東流合気柔術の継承者だったという説もあります。
父が江戸詰だったため江戸で暮らすことも多かった頼母ですが、その父が隠居すると33歳で家督を継ぎ、会津藩家老職に就任しました。
松平容保の京都守護職就任に反対
文久2年(1862)徳川幕府は会津藩主・松平容保に京都守護職への就任を打診します。当初、容保も頼母もこれに反対でした。ところが、政事総裁職の松平春嶽らに「会津藩は将軍家を守護すべきである」という会津藩家訓を引き合いに出され、容保は就任の決意を固めます。しかし、頼母は就任後も反対し続けました。これに怒った容保から家老職を解かれ、ついには蟄居処分とされてしまいます。
それでも頼母は会津藩が政局に巻き込まれることを懸念し、京都守護職就任に強く反対し続けました。これには、病弱だった容保を心配する部分もあったと考えられています。
会津戦争の悲劇
鳥羽・伏見の戦いを契機に、会津藩は会津戦争へと突入します。この戦いにより、頼母とその家族に悲劇が降りかかりました。
鶴ヶ城に帰参し恭順を勧めるも?
明治元年(1868)、頼母は家老職に復職します。鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、徳川慶喜は新政府軍に恭順を示すと共に、容保の江戸城登城を禁じました。そのため、容保や会津藩士らは完全に江戸から撤退し会津に帰郷することになります。その際、頼母は江戸藩邸の後始末を任されました。
会津藩は新政府への恭順に備えましたが、新政府側から「松平容保親子の斬首」を要求され、主戦論へと変化。頼母はこれを覆すことができず、白河口総督として新政府軍と戦います。しかし、新政府軍の進撃は激しく、やがて母成峠から城下へと侵入されてしまうのです。
白河城が落ちると、頼母は若松城に戻り再び恭順を勧めましたが、多くの藩士は徹底抗戦の構えを見せ、意見が割れました。意見の折り合いがつかず、苦しい立場に立たされた頼母は、長子である吉十郎のみを連れて城から脱出します。これは、越後口にいた萱野軍への連絡にかこつけた追放措置のようなものでした。
一説には容保が頼母を助けるために伝令を頼んだともいわれており、刺客として送られた者は敢えて二人を追わなかったという話も残されているようです。
西郷一族21人の集団自決
新政府軍が若松城下に侵攻した頃、頼母邸では悲しい出来事が起こっていました。頼母の妻、義母、妹、子供、母の実家の婦女子らも含め、西郷家一族21人が集団自決を図ったのです。
新政府軍の土佐藩士・中島信行が頼母邸に入ったとき、その壮絶な現場にぼう然としたといいます。しかし、細布子(たいこ)という若い娘だけはまだわずかに息があり、中島を見て「敵か味方か」と尋ねたそうです。不憫に思った中島は「味方だ」と告げて介錯しました。福島県にある歴史ミュージアム「会津武家屋敷」では、この悲劇のシーンが再現されています。
会津戦争では200人以上もの会津の民が自刃したといわれています。敵に捕獲され恥をかかぬように、という会津人の誇りと覚悟がそうさせたのでしょう。
戊辰戦争後の頼母は?
頼母は米沢から仙台に向かい、旧幕府軍の榎本武揚・土方歳三と共に箱館戦争を戦います。しかし、旧幕府軍が降伏すると、箱館で捕らえられ、館林藩の預け置きとなり幽閉されました。
戊辰戦争終結後の会津藩士たちは斗南藩(現青森県)に移住します。幽閉を解かれた頼母も例外ではなく、青森県十和田市の立川家の戸籍謄本からは、頼母の弟・安之進の存在や頼母と養子が住んでいた住所などが確認されています。
明治3年(1870)、本姓であった保科に改姓した頼母は、赦免後に伊豆・謹申学舎の塾長となります。その後、都々古別神社(つつこわけじんじゃ)の宮司となりましたが、西南戦争が起こった際に謀反を疑われて解任、明治13年(1880)には容保が宮司を務める日光東照宮の禰宜(ねぎ)となりました。政治活動に加わるなど紆余曲折もありましたが、明治36年(1903)に故郷である会津若松で最期を迎えます。激動の74年を生きた頼母は、妻・千重子とともに福島県の善龍寺で今も眠っています。
西郷隆盛との関係
同じ幕末に活躍した西郷という名でもう一人思い浮かぶのが薩摩藩の西郷隆盛です。頼母と隆盛にはどのような関係があったのでしょうか。
同じ菊池氏が祖先
「西郷氏」の祖先は肥後(現在の熊本県)の菊池氏で、頼母も隆盛も同じ菊池氏を祖先に持つ親戚にあたります。室町時代まで家系図をさかのぼってようやくつながる程度なので、かなり遠縁といえるでしょう。三河に移住した三河国守護代の血統が会津藩家老の先祖で、九州に残り薩摩に移住したのが隆盛の先祖です。珍しい名字なだけに、やはり関連があったのですね。
2人には親交があった!?
二人に親交があったことは、いくつかの史料で明らかにされています。
明治3年(1870)幽閉を解かれた頼母は、新政府に抗議して斬首された米沢藩・雲井龍雄との関係を疑われます。そのときに助けを求めたのが隆盛で、昭和53年に返書が公開されています。また、会津戦争後の隆盛は、たびたび頼母に見舞金を送っていたようです。
明治10年(1877)西南戦争が起こると、都々古別神社の宮司を務めていた頼母は謀反の疑いをかけられ解任されてしまいます。これについて頼母は「西郷隆盛と交友があったため疑われた」と著書である「栖雲記(せいうんき)」に記しています。
また、旧薩摩藩主・島津家に伝わる国宝「島津家文書」の中には頼母が隆盛に送った明治4年(1871)5月21日付の手紙が残されています。頼母は戊辰戦争の件をふまえ自己紹介し、同族のよしみで東京に行く息子・吉十郎の学費を援助してくれるよう頼んでいます。
頼母の胸中に思いを馳せる
会津藩筆頭家老だった頼母は藩のことを最優先に考えていたのでしょう。悲しいことにそれが一族自刃や裏切り者扱いへとつながってしまいました。果たしてその胸中はどうだったのでしょうか……。戊辰150年として会津藩の悲しい歴史が注目されている今こそ、”もう一人の西郷“西郷頼母に注目してみてはいかがでしょうか。